Your browser does not support script
若葉会概要
以前の新着情報
沿革
会則
校歌
会員数一覧
会員・各期情報
OB会情報
各期別情報
いきいき卒業生
社会連携
筑駒人材バンク
卒業生出版物>
会報情報
会報記事紹介
母校情報
活躍在校生
行事その他
事務局通信
事務局便り
イベント案内
年間予定
若葉会委員コラム
投稿・情報受付
会員・各期情報>いきいき卒業生>戦後70年記念
戦後70 年記念特集:インタビュー
去る2015年10月25日、戦後70年にちなんで、自身の戦争体験や開校当時の筑駒の様子に
ついて本校1期卒業生3名に若葉会若手幹事がインタビューしました。
1期 田村 茂夫さん
東京農業教育専門学校附属中(以下農教、現在の筑駒のこと)の1期生として中高時代を
過ごし商学部に進学した大学時代には応援団の副団長を務めた。代沢に生まれ育ち、現在は
「北沢川文化遺産保存の会」で街歩きに参加し、当時の街の様子を語り継いでいる。
【戦争の記憶】
小学校4年生の時(昭和19年)に福島に縁故疎開した。集団疎開と違って疎開先が親戚の家
なので食事に困窮することはなかった。けれども地元の人達は、村八分ではないけれども、
なんとなくよそよそしく感じられて心細かった。
東京には昭和20年の8月16日に戻ってきた。自宅の周辺は幸運にも焼け残ったけど、泥棒が
絶えなかった。夜中に米蔵の見張りをさせられたこともあったし、銭湯で妹の着物が盗まれた
こともあった。とっ捕まえた泥棒の顔を見たら自分の友達だったときはとても辛かった。
小学校の頃は兵隊になりたいと思っていたくらいだから、敗戦後は大きな虚脱感に包まれた。
応援団に入ったのもその影響かもしれない。敗戦のショックは今でも私の中に強く残っている。
【開校直後の筑駒】
農教は「若い農業者を育てる」という理念のもとに設立されたそうだ。農教が開校した1947年
は戦後からまだ間もなく、食糧難が叫ばれていた時代だった。
入学者集めには苦労したそうだ。戦争の混乱もあり、受験についての情報網といえば口コミ
しかなかった。私が通っていた代沢小学校の連中には「農教は国立だから学費が安い」といった
噂が相次ぎ、先生や近所の人からも勧められた。結局代沢小からは30人合格、1名辞退し29名が
農教の1期生として入学し、私もその一人だった。以前下北沢にあった「風月堂」という洋菓子
屋のせがれも一期生のひとりだ。
筑駒の開校記念日は5月1日だけど、「どうして4月じゃないんだ」と疑問に思った人もいる
だろう。入試が3月までずれ込んだのだ。
校舎は旧日本軍の兵舎跡で、教室は馬小屋を改修したものだったから、とても皆さんがイメージ
する「教室」といったものからはかけ離れていた。学校が始まって最初にやったことは授業では
なくグラウンドの石拾いだった。6月からやっと教師が続々と赴任し始めた。そういう混乱の中
で始まった。
今では大学進学は当たり前だが、私達のころは大学に行くやつはよほどのエリートだった。
農教も現在のような進学校ではなかった。中学校を出たあと、頭のいいやつは都立高校へ行って
しまった。農教附属中1期卒業生92人のうち附属高校へ内進したのはたったの35人だった。残り
の大半は都立や他の私立高校へ進学し、大塚の附属高へ行った者や中卒で就職する者もいた。
1期 横溝 豊さん
実家は八王子で農業を営んでいた。当時は体が小さく、満員電車で人波に揉まれながらの
遠距離通学だった。高校卒業後に東横百貨店に就職し、レストラン部門の分離独立に携わる。
その後は飲食関係を担当。今でも1期会はこのレストランで開催している。当時の渋谷は
落ち着いた街だったが、時を経て「若者ファッションの発信地」となり、次第に渋谷109と
いった若者の街に変化した。
【戦争の記憶】
八王子市の大和田地区に生まれた。当時八王子は「絹の町」と言われ、桑を育てて蚕を
飼っている家が多かった。私の家も、蚕が絹糸を出す頃には母屋は蚕に取られ、人は離れで
寝起きしていた。
国民学校では次々に先生が兵役に取られ、あまり満足に授業を受けた記憶がない。とはいえ、
当時の八王子には比較的食糧もあり、特に物的欠乏を感じたことはなかった。昭和20年になると
毎日正午にB−29が富士山を目標に駿河湾から関東平野にやって来た。毎日12時に空襲警報が鳴り
それでもう学校はおしまい、という日々が続いた。
大和田地区は農村であり空襲などとは無縁であったが、八王子市街は昭和20年7月31日に空襲
を受けた。浅川(八王子市北側を流れる多摩川の支流)を挟んで対岸の八王子市街が真っ赤に
燃えていることを鮮明に覚えている。火が収まった後の八王子市内の惨状は見た記憶がない。
子供にそのようなものを見させまい、と大人たちが配慮したのだろう。
終戦後、八王子は「糸ヘン景気」に沸いた。衣食住という、人間の生存の基礎に必要となる
要素は需要が大きく、絹糸の集積地であった八王子はいち早く復興を遂げた。もっとも復興が
早かった分、街が戦災復興に併せて作り変えられることがなく、また学生街となったため消費
力が弱く、最近は立川の方が街として大きくなってしまった。戦前の二つの街を知る者としては
やや残念に思う。
【開校直後の筑駒】
駒場の地に始めて足を踏み入れたのは昭和22年3月の受験の時であった。当時は田圃の脇に
駒場の駅があり、通り道の教育大のキャンパス(現駒場野公園)は空襲で焼けたまま、淡島通り
を挟んだ反対側には修道院があるなど、今とは隔世の感がある様相であった。
当時の校庭は今よりも広く、池尻の側の崖まで延々と広がっていた。崖はススキ野原になって
おり、そこで転寝して始業時間に遅れると仲間が呼びに行ったり、鐘を鳴らす係がわざわざこち
らまで歩いてきたりした。また当時は学校が祖師谷に農場を持っており、馬術部があった。
皇太子殿下(現天皇陛下)が居た学習院のチームと対戦したことなどが印象深い。
八王子から出てきた私にとって渋谷はとても都会で驚いた。渋谷・神泉のあたりは軒並み空襲
に逢っており、当時の道玄坂には闇市が立ち並んでいた。
1期 村野 嘉孝さん
町田で生まれ育つ。小学校の校長だった父から農教開校の知らせを聞き、入学。中高を農教
で過ごしたあと、文学部に進学。会社では成年女子ハンドボール部の責任者となり、昭和58年
国体で群馬県のハンドボール総合優勝の一翼を担った。それをきっかけにフルマラソンに挑戦。
初挑戦で4時間を切り、以来60歳になるまでフルマラソンを続けた。80歳を迎えた今も走り
続け社交ダンスも趣味としている。
【戦争の記憶】
小学校に通い始めてからすぐに戦争が始まり、4年生の頃には沖縄への上陸が新聞に載った
ことを覚えている。学校の先生に言われて竹槍をつくり、霜が降りた地面で訓練をさせられた
こともあった。 当時はやはり食べ物の制限に苦しんでいたが、蜂の巣をとってハチノコを
食べるなどして乗り切っていた。そういった知識や知恵は上級生や地元の大人たちから教わった。
丘の上から戦闘機が見えて、逃げる間もなく空襲を受けたこともあった。田んぼに潜って必死
に隠れると、その側の土橋に人差し指サイズの銃弾がうちこまれ、非常に怖い思いをしたが、
その銃弾を拾って学校に持って行き見せびらかすこともしていた。
小学校4-5年生では担任の先生が兵に取られるなどして何度も交代したが、5-6年生では
一転して一人の男性の担任に面倒を見てもらった。その先生は、戦時中から戦後の混乱の中で
「人間」として自分たちと接してくれる数少ない人間であった。食べるものがなくて気が立って
いる生徒に対して、その先生は「耐える」ということを教えてくれた。そのことはその後の人生
に大いに役立ち、今では先生に救われた部分が大きいことを実感している。
【開校直後の筑駒】
それまでは先生の言うことや教科書に書いてあることを一字一句身に付けることがすべて
だったが、駒場に来たらいきなり「レポートを書け」といわれた。レポートなんてものを知ら
ない自分にとっては大きなカルチャーショックだった。
「壁新聞」という、壁に意見をのせたものを貼りだす活動を学生の中でも優秀な部類の者
たちがおこなっていた。共産主義と自由民主主義に分かれて論戦を繰り広げていたようで、
私がそこに入れるような隙はなかった。中学3年生になるとそういった活動は衰退し、みんな
部活動に打ち込むようになっていった。
(聞き手 55期白川達朗・60期大野択生・61期宮入匡平)
戦後70年記念特集:「戦中・戦後の思い出」
1期 石川靖児様からNHK記者の同期生の会「風雨会」の文集(2012年1月発行)
に掲載した「集団疎開の思いで」の転載許可を頂きました。戦時中のご家族との
手紙は九段の昭和館に収蔵されているとのことです。原文は旧字ですが新字に
させて頂きました。
集団疎開の思いで 1期 石川靖児
太平洋戦争の最中の昭和19年(1944年)、米軍による日本本土への本格的な空襲に
備えて大都市の国民学校初等科の学童をより安全な地域に移住させることになった。該当の
都市は東京、横浜、川崎、横須賀、名古屋、大阪、尼崎、神戸、京都、舞鶴、広島、呉、門司
小倉、戸畑、若松、八幡の各都市で、縁故疎開が出来ない国民学校初等科3~6年生の学童
およそ40万人以上が親許を離れて農村部に移動した。疎開学童は疎開先の旅館、寺院などで
暮らし、地元の国民学校にかよった。
私は当時世田谷の下北沢に住んでいて歩いて5分ほどの代沢国民学校初等科の4年だった。
父は母の故郷盛岡の知人に頼んで縁故疎開を考えていたようだが、締め切り間際になって集団
疎開に決めた。同じ町内の宿舎はすでに一杯になっていたため違う町内に住む人たちが寄せ集
められた一番小さな宿舎で暮らすことになった。
疎開に出発したのは昭和19年8月12日の夜。行く先は長野県東筑摩郡本郷村浅間温泉
(現松本市)の6軒の温泉旅館。翌20年4月に再疎開で東筑摩郡塩尻町(現塩尻市)中心に
五つの町村の六か所のお寺に移った。私の宿舎は洗馬村(現塩尻市)の寺の一つで、疎開から
1年3か月後の昭和20年11月に下北沢に帰るまでの半年あまりここで過ごした。
集団疎開当時の手紙や葉書類のうち、子供が親へ送ったものは親が大事に保存していたよう
だが、家族から来たものは子供の方がきちんと保存しなかったため、あまり残されてはいない
という。私は家族からの手紙はいつでも読み返せるように大切に保存していた。疎開から帰って
しばらくしてから、母が私が送った葉書などを私に渡してくれた。これらは合わせて54通。
また当時の日記、宿舎などで写した記念写真、先生が当時ガリ版で作った家族に送った新聞など
の「史料」もあり、これらは就職して家を離れる際も袋に入れてしっかりと保存していた。
定年後ラジオ深夜便のニュースデスクの仕事をしていたころ、アナウンサーの宇田川さんに
疎開当時の記録を保存していると話したところ、ちょうど終戦記念日前後だったこともあって
見たいと言われ、ワープロでも保存していた当時の日記をコピーして渡したら番組ですぐ取り
上げてくれた。こうした「史料」も私が死んだらあとはゴミあつかいにされる可能性があるので
彼女に相談したところ厚生労働省が九段下に戦中・戦後のいろいろな「史料」を集め保存する
施設「昭和館」を作っているので相談してみたらと助言をえた。まだ設立準備室だったが、
担当者から是非寄贈してほしいと頼まれ、写真も複写した上、一連の疎開の「史料」をそっくり
寄贈した。これらの「史料」は開館後、常設展や特別企画展で一部紹介してくれたが、当時の
学童疎開関係や一般の書簡類の収集資料でも私のようにいわば往復の書簡が保存されたのは
極めて珍しく、特記に値するという。そのせいか昭和館学芸部では2008年3月発行の紀要
「昭和のくらし研究」No.6で「学童集団疎開児童の往復書簡-石川靖児氏手紙」として、
6頁にわたる論文を載せ、4枚の写真とともに私が寄贈した54通の手紙葉書類すべてを
原文のまま~誤字・脱字も訂正せずに~18頁にわたって掲載してくれた。
今年(2011年)8月16日付けの毎日新聞の「記者の目」というコーナーで生活情報部
の木村葉子記者が「平和を考える・戦時中の私信」で4段にわたり「時代伝える貴重な記録
残そう」という記事を書き、このなかの二番目の項目「食べ物書くな」という小見出しで私の
ことを33行ほど次のように取り上げてくれた。
『同じく代沢国民学校(現東京都世田谷区立代沢小学校)の4年生で浅間温泉に疎開して
いた石川靖児さん=埼玉県所沢市=は、家に書き送った私信54点と日記などを昭和館
(東京都千代田区)に寄贈した。昭和館は戦中戦後の生活に関わりある資料を収集・展示する
国の施設。石川さんは「私にとっては大切なものだが、子や孫はそうは思わないだろう。
役立ててもらえるのでは」と寄贈を思いついたという。石川さんが家族に送ったものと家族
からの往復書簡で、昭和館によるとセットで残るのは珍しいという。<くつ下を早くおくって
ください><みみがつめたくなるから、耳にかける袋を作ってください><座ぶとんは小さい
のでもう少し大き(い)のがあったらおくってください> あれこれ無心しているが、食べ物
は求めていない。食べ物に関することは書くなと引率教師から指示があったという。「先生が
目を通していた。手紙に書いたのは上っ面のこと。本当のところは心の中に秘めていた」』
疎開当時の日記をいくつか見てみよう。
『八月十二日(土曜日)学校集合だ。僕がいったらずいぶんきていた。しばらくしてから校長
先生のお話があって九時に式をはじめて十時ごろに学校出発だ。僕達は先の電車に乗るのだと
思っていた。
駅の中にはいると外の方でチャウチンをふっていた。いよいよ電車にのった。急行だったので
すごく早かった。新宿につくとしばらく後の電車にのってきたのが来た。汽車にのったら皆
うれしさうだった。どんどんいって有名な「ささごトンネル」をくぐっていった』
(註 駅は小田急下北沢駅)
『八月十三日(日曜日)朝になった。やっぱし空気がなんだかおいしいやうだ。九時半ごろ
松本駅についた。電車にのって浅間の駅について荷物をやどにおいてすぐ本郷国民学校の講堂
にはいって、きゅうけいをした。式をすんでから氏神様をさんぱいにいった。宿舎にかえって
からお茶をのんで室にはいった。夜は家でねているゆめをみたのでかえりたくなった』
『八月十九日(土曜日)今日、東部五十部隊を見学にいった。し子隊とかいう隊を見た。
何からなにまできちんとせいりをしているのにびっくりしてしまった。小銃をうつところも
見た。すんでから部隊長さんからとてもいいお話をきいた。帰る時、英れいがあるところを
おがんでいった。夕方、自由時間の時、荒井、前野、才賀と僕の四人で温泉プールを見にいった』
『八月二十三日(水曜日)今日から学年別に勉強をした。僕達が勉強にいくところは、きり
の湯にいった。僕は蔦の湯の四年男子の班長になった。算術のかけ算の宿題が出た。体操の時
に水のない川にいった。この川は女鳥羽川というさうだ。一時から自習だけど先生がどこかに
いったのでできなかった。夜は将ぎのお金をした』(註 旅館の広い部屋での寺小屋式の座学)
『九月五日(火曜日)今日からいよいよ田町国民学校(松本市内)で勉強を初(始)た。
僕達の教室は一年三組で、僕の机は窓ぎわ(四のかわ)の前から四番目の右だ。二組のえの本君
と並んだ。学校の見学や先生のお話で勉強ができなかった。三時半ごろ学校を出て、五時に宿舎
にかえった。帰ってきたらお菓子が来ていた。僕のがないと思っていたら千代の湯(註 本来
ここに入るはずだった宿舎)に行っていたそうだ。僕があめがはいっているのかと思っていたら
やっぱりあめだった。一ぺんにたべたらあとの楽しみがないというので七つだけだしてみんなに
わけた。(宿舎の男子は7人で、男子に送ってきたお菓子は7人で分け合った)
あめはあとでたべやうとおもっていたら、ご飯のかねがなったのでいったらライスカレー
だった。ご飯がいっぱいなので、みんなこれいぢゃうたべたら破裂してしまふなどと話をして
いた。さんぽにいったらにじがみえた。(註 このころはまだ食料事情はよかった)』
この日記は母が面会に来たときはうれしさのあまり書き忘れたり、年が明けると毎日きちんと
書かなくなり、昭和20年4月6日まで断片的に記入はしたものの、9月21日までは記入して
いない。8月15日の終戦当日は記憶ではすごく暑い日に地区の世話役の家に行かされ、正午
からピーピーガーガーというラジオで終戦の勅語を聞いた覚えがある。9月22日から10月
22日までの日記はあり、10月13日は『疎開以来一年二か月』という書き込みがあった。
このころの内容は冬に備えて村の人たちが山に準備してくれた薪運び、放課後何人かの仲間と
きのこ採り地元の祭りですごいご馳走になりびっくりしたこと。大雨で学校に行く途中の橋が
流されそうになり学校を休んだことや、校庭の畑にさつまいをを掘りに行ったことなど。9月
28日には『・・一時間目は修身で「きゃういくちょくご」をあんきした。三分の二くらい
いえるようになった・・』とあり、終戦後も修身でこのような教育が続いていたことがわかる。
浅間温泉に着いた直後の8月14日付の葉書に「元気ですか無事つきました。温泉に四回も
はいってつかれてしまひました。宿舎もちひさいといってもとっても大きいところです。僕達の
室は二階になりました。僕のふとんが一番大きいのでびっくりしてしまいました。そばに松本行
の電車があるのでとてもべん(ママ)です。こんど山にのぼるのでまただします。・・」これに
対して母からの返事「・・お米の小包もいれて四つ送りましたから届いたらその度に葉書でつい
たことを知らせてください。ただ早くにはつかないかも知れません。小包の紙とひもは大切に
しまっておきなさいね。自分の着類はきちんと整理しておくのですよ。靖児の体にはあまり
お風呂に入り過ぎると体によくありませんから気をつけて下さい。先生や寮母様のおっしゃる
ことをよく守ってお入りなさい。東京は昼はとても暑いです。浅間の方は涼しいでせう。風邪を
引かないように気をつけて下さい。・・お前さんの葉書に(東筑郡)とありましたがこれは
間違いですよ。東筑摩郡とかくのですよ」。そそっかしい性格はこのころからあったようだ。
11月3日の私の誕生日の前に母が隣の家(陸軍参謀本部に勤務していた大佐が住んでおり
その一人息子は中学1年で私を弟のように可愛がってくれた)から飴をもらい送ってきた。
11月2日の母からの手紙「・・明日十一月三日は靖児ちゃんのお誕生日ですね。おめでたう。
中山さんからいただいた飴のお礼のはがきを出して下さいね。折角(せっかく)叔母さまが
つくって下さいましたから。では元気でしっかり勉強しませうね。十一月二日夜十時
さやうなら 靖児どの」。これの私の返事。「・・体重はやっと来た時と同じになって23
(キロ)になりました。中山さんからいただいた飴は少しねずみに食べられて男がたべられ
ないのがざんねんでした。・・」これの母からの返事。「今お葉書を見ました。十一月三日の
お前さんのお誕生日にと折角(せっかく)中山様からいただいた飴をねずみに食べられて男の子
たちがたべられなかったそうでお母さんもとても残念でなりません。そのくらいなら三日まで
のばさずに早くあげればよかったと後悔(こうかい)しています。残りの飴を小さくしてでも
男の子も食べればよかったと思いました。それでは中山様にお礼の書きようもないでせう。・・」
私の宿舎は規模が一番小さく男子は3~6年で7人。この頃はまだ余裕があったのか、東京の
親たちから時々おやつのお菓子が送られてきていた。そして男子宛てのものは男子7人で分け
合って食べていた。私がいた宿舎のH先生の長男は6年生(男子は6年は彼一人あとは4年と
3年)、長女が3年生で同じ宿舎で暮らしていた。このため奥さんが下北沢の家を空き家にして
1年生の末娘と一緒に松本に家を借りて住んでいた。この教師は母が私に飴を送ったことを知ら
せる手紙を出したことを知らずに、松本にいる家族に飴を食べさせようとピンハネして持って
いったのだろう。私の問い合わせでびっくりしてねずみを犯人にしたようだ。母は当然この教師
の悪巧みに気がついたようで、その後この教師をあまり信頼しないようになったと思う。私は
戦後だいぶたってから母からこのことを教えてもらったようで、それまでは親代わりにお世話に
なった立派な先生と思っていただけにがっかりした。聖職者と言われた教師も戦時の物資不足の
おりには、教え子のものをピンハネしてでも家族を喜ばせようとしたのだろう。もっともこう
した教師はごくわずかだったとは思うが・・。
6年生は4月からの東京の中学校や高等女学校に進学するため20年2月末に東京に帰り、
本来の国民学校で卒業式を迎えることになった。代沢国民学校の校区は幸い空襲はなかったが、
東京下町の本所、深川、浅草方面は3月10日の「陸軍記念日」の米軍の大空襲でせっかく元気
に帰ってきた多くの6年生が亡くなった。また5年生以下の学童は疎開先で安全に暮らしていた
がこの空襲で肉親を失い孤児になった子供も多くいたようだ。
昭和20年11月2日(私の11歳の誕生日の一日前)にようやく東京に帰ることになった。
来る時は夜行の臨時列車だったが、帰りは昼間の臨時列車。中央線で東京に近づき荻窪すぎて
中野あたりに来たら線路の両側は一面の焼け野原。新宿駅のホームは屋根がまったくなく、
周りを見渡すと当時鉄筋コンクリート造りだった三越と駅前の二幸、それに映画館の武蔵野館
の三つだけが残っていた。駅前に出たらあるいは尾津組のヤミ市くらいは見えたかもしれないが
これほどの焼け野原とはとびっくりした。私が我が家に帰り家族はようやくもとの五人家族に
戻った。我が家では昭和19年当時、中学3年だった兄が所沢にあった陸軍少年飛行兵学校に
入った。兄は幼いとき肺炎にかかり胸にあとが残っていたため操縦ではなく整備にまわされ、
その後立川の航空整備学校にいったおかげで、特攻隊などに選ばれなくてすんだ。私は集団疎開、
父は徴用で千住にある軍需工場の寮の舎監に、姉は20年3月に女学校を卒業したあと東京は
危険ということで母の知人の紹介で疎開を兼ねて岩手県の繋温泉にある海軍病院の事務員に
なった。このため下北沢の家にいるのは母一人。五人家族はバラバラになってしまった。
ところで私たちの学年は新制中学校の一期生。同じ国民学校からは新しくできた区立の
中学校に進学することになっていたが、たまたま代沢国民学校に近い駒場にあった国立の
東京農業教育専門学校(後の東京教育大学農学部・・・略して農教・ノーキョー)に附属
中学校が出来るというで代沢から多くの6年生が受験し(二次募集してやっと定員100名
がうまった)30人近くが合格した。今は筑波大学附属駒場中学校という超有名校になって
しまったが、私達のころは地元の区立中学に行っていた仲間からは「ドン百姓」「コエ担ぎ」
とよく言われたものだ。ノーキョー附属一期の3割近くが代沢なので代沢の同期会を兼ねて
いるといえるかもしれない。
※注:「コエ」は今は死語になってしまったが、広辞苑によると「肥料にする糞尿」
「しもごえ」とある。今のような水洗時代とちがって「くみとり」の仕事があった。
Copyright (C) WAKABA_KAI. All Rights Reserved.