Your browser does not support script
若葉会概要
以前の新着情報
沿革
会則
校歌
会員数一覧
会員・各期情報
OB会情報
各期別情報
いきいき卒業生
社会連携
筑駒人材バンク
卒業生出版物>
会報情報
会報記事紹介
母校情報
活躍在校生
行事その他
事務局通信
事務局便り
イベント案内
年間予定
若葉会委員コラム
投稿・情報受付
会員・各期情報>いきいき卒業生>私の履歴書>膳場さん
.
私の履歴書 筑駒3期 「膳場 昭」が語る
「本編」
インタビュアー 13期山本・15期羽鳥
2014年8月24日掲載
読者の皆様、大変お待たせ致しました。
本件につきましては、2014年6月26日に「予告編」を掲載し、「本編」の掲載は8月24日掲載
を目標に進捗してまいりました。インタビューに基づく素稿をスタートに、ご本人との校正
に続く校正を経て、幸い、予定日通り掲載の運びとなりました。必ずや皆様にとって有意義
な情報が提供されるものと確信しております。やや、長編となりましたが、感嘆する心打た
れる内容満載であり、飽きの来ることはありません。どうぞ楽しんでお読みいただき、エネ
ルギーも是非吸収されてください。
また、8月24日掲載に拘って進捗した種明かしは、本編にて直ぐにも判読できるものと存じます。
なお、インタビューではありましたが、ご本人による語り調に編集してあります。
「本編」
若き後輩の皆さんには逞しい人生を切り開くヒントと希望を、後続世代には生きることの楽
しさを、そして、同世代の成熟した方々には癌といえども克服できることの勇気を、少しで
も与えられるきっかけになればと願っております。「私の履歴書」シリーズ企画に係るHP委
員会からの要請を受け、自分の人生のほんの一端を披露することと致しました。何かを感じ
取って下さり、僅かなりとも明日への糧としていただければ望外の喜びです。
1.誕生・小学校
1936年8月24日、ねずみ年、東京に生まれました。第2次世界大戦へと突入していく困難な
時代です。ちなみに、人生最初の大きなショックを終戦直後、代沢小学校3年生の時に経験し
ました。長男である私が実兄のように慕っていた従兄弟が、当時中学校低学年でありながら
(非国民と云われるのを恐れたのか?)、終戦の半年程前に予科練(海軍飛行予科練習生)に
志願して入隊していました。3月に私が妹と弟の3人で新潟へ縁故疎開する直前に、彼が制服
で来宅しました。純白の正帽、純白の上下正服で、予科練の歌の歌詞にもなった「7つボタン
は桜と錨」のデザインで、すごく格好よく『僕も大きくなったならば、ヒロニイチャンの様
に・・・』と憧れました。その後偶々8月初旬に疎開先から東京に戻ったところ、数日後の
8月15日に終戦になりました。 それから暫くして、そのいとこが終戦の直前に帰らぬ人と
なっていたと知り、我が人生初の大ショックを受けました。終戦の時は小学校3年生でした
ので、戦後の大変な食糧難、苦しい生活の連続、こうした極めて過酷な体験が潜在的要因と
もなり、自分の将来における方向性を必然的にもたらすことになったのでしょう。
2.中学・高校
最初のショックから3年半後、次の大きなショックが待っていました。旧東京教育大学附属
駒場中学を受験し、合格者109名に入って、それまでの人生で初めての大きな喜びを味わって
いたところでした。ところが、どうしたことか、引き続いて、109名の合格者を100名に減らす
為の抽選が行われたのです。自分の番になり、小さな玉が沢山入った回転抽選器を思い切って
回すと、何と失格の玉が飛び出し、合格取消し9人中最初の1人になりました。その時のショ
ックは、言葉には言い表せない程強烈なものでした。しかし後日、受験生の父母から「文部省
の命令とはいえ、あまりにも残酷で、教育機関がすべき行為ではない」との声が大きくあがり
結局は、幸いにして109名全員の入学が認められたのでした。それでもなお、この人生第2の
大ショックを未だに忘れることが出来ません。
もし合格取消しが撤回されていなければ、若葉会メンバーになり得る筈も無く、今こうして
若葉会事務局で、インタビューに応じていることも無かったでしょう。
続いて同高校に進学した頃には、既に明確な将来の方向を決めていました。
日本が戦後
の貧しさから立ち直るには、資源は乏しいが物を造る優秀な人材が豊富なので、加工貿易
をするしかない。その貿易を最前線で担いたい。何一つ迷うことなく心に固く決めていま
した。
恩師の重松先生初め、理科の先生方からは、「君は理系だから、技術者か医者になり
なさい」と幾度か強い助言を受けました。しかし「外貨を獲得して日本を豊かにしたい」と
の固い決意は少しも揺るぎませんでした。
3.大学
固い決意の延長線上の選択です。慶應義塾大学の経済学部に進学し、やがて来るその時に
備え勉学に励みました。しかしながら、理系科目に係る関心も捨てがたく、時には医学部の
授業に潜り込んで聴講することもありました。こうした幅広い好奇心が、その後の仕事推進
上にあっても大いに役立った想いがします。ご心配なく、勿論、大いに遊びもしましたよ。
4.「20-30歳代」 猛烈な会社人間のスタート
大学卒業後、三井物産に入社が決まり、高校生時代からの志を実現する時が遂にやって
きました。1960年代は、化学品関係の産業に将来性があり、加工貿易の中核ともみなされて
いたので、その関係部門への配属を希望しました。幸い、化学品第1部の合成樹脂部門に配属
され、初めての担当が米国Du Pont(デュポン社)(以後、Du Pont社との混用表示有、文章
の流れに対応し適宜適用) からのポリエチレン輸入です。 米国デュポンと三井石油化学
の合弁会社として三井ポリケミカル(以後、略称の三ポリとの混用表示有)が設立されたの
で、国内生産が始まるまでの繋ぎとして、三井物産がデュポンのポリエチレンを代行輸入し
三ポリに納入する仕事を担当しました。 同時に三井物産は三ポリと協力してポリエチレン
の国内需要を開拓し、販売する任務も有りました。私はMan to man leaderだった先輩にお供
して、プラスチックを原料として製品を作る中小の加工工場をあちこち訪ねました。 また
三ポリの親会社、三井石油化学の岩国工場でポリエチレンの研修会があり、工場見学や研究
室での実験を交えた講義には、元々理科好きの私は大変惹きつけられました。その後も好ん
で何回か工場を訪れたことを覚えています。
国内中小企業との取引には酒が付き物でしたが、残念ながら私にはアルコール分解酵素が
無いので、僅かな酒にも酔ってしまいます。課の先輩2人から「酒が飲めないと仕事になら
ない」と云われ、毎晩のように立ち飲み屋に連れていかれ、強制的に飲まされたのは、私に
とって大変な苦行でした。
ところで、新入社員には順番に夜「電番」と云う残業があり、その日は酒の付き合いから
解放されました。当時は国際電報料金が高かったので、文字数を減らして節約する目的で
海外店との交信に、アルファベット文字の組合せと並べ方を変えて、かなり長い文章の意味
を伝える暗号を使っていました。 「電番」とは海外から本店の電信室に入ってくる暗号
電文を、分厚い暗号解読辞書を使って普通の文章に書替えて、宛先の部門ごとに分類して
配る仕事です。 その残業代は薄給の若者には大変有難いものでした。 私自身も自分の
仕事に暗号電報を使えるようになりました。
こうして商社マンとして一通りの業務をこなせるようになった入社後4年半目に、担当の
異動があり、今度は特殊な工業材料としての合成ゴム(クロロプレンゴム)を製造する電気
化学工業株式会社(以後、デンカまたはDENKAとの混用表示有)を担当することになりました。
いよいよ、念願であった日本製品の海外輸出担当です。 連日デンカに出向いて輸出市場開拓
の打合せをしたり、海外から受けた注文に基づき、注文の品を新潟の工場から船積みする港
に届けてもらい、それを船積みするために、社内の運輸部に出荷依頼すること等が主な仕事
になりました。 海外との時差があるため、時には夜中まで残業せざるを得ないこともあり
ました。
5.「30-40歳代半ば」31歳から5年間のドイツ赴任、その3年半後更に6年半のドイツ再赴任
30歳を迎える直前に、当時の部長から「デンカからのご指名で、君をクロロプレン専任
担当者としてドイツに出すことにしたから、これから1年、更に商品の知識を深めるように
心がけ他の国への転勤の誘いには乗るな」とのお達しがありました。 そして翌年7月頃に
なり「そろそろ出発の準備をせよ」と命じられましたが、12月末頃に第1子の誕生が予定さ
れていたで、意図的に出発を延ばしていたところ、9月になり常務から怒られ、10月中の出発
を約束しました。 そこで早速ドイツ三井物産(略称 独物)及びデンカと相談して、
相当
量のデンカCR(クロロプレンゴム)
を三井物産(MBK)(以後、略称のMBKとの混用表示有)
運輸部に依頼してハンブルグに向けて海上輸送し、現地での受注に合わせ迅速に供給する為
の現地在庫をスタートさせました。 その上で会社のルールに従い、家族を日本に残し一人
で、10月30日にルフトハンザの夜行便で出発し、デュッセルドルフ(以後、Duesseldorf
または略称のDssdとの混用表示有)に現地時間10月31日朝8時20分に到着しました。到着早々
独物に連れて行かれ、社内及び同ビル内のデンカ事務所はじめ、他の日本企業駐在員事務所
に挨拶を済ませると、休む暇なく午後早速、車でアウトバーンを猛烈なスピードで走り、
Essen市のデンカCR販売代理店へ挨拶に連れていかれました。当時の独物化学品課の忙しさを
ご理解いただく為に、到着翌日11月1日〜30日までの1か月間私がこなした仕事を、具体的に
説明します
。
ドイツ三井物産着任直後1か月間の活動記録
(注)以下は、本人が当時常に持ち歩き、主な行動を記録したポケット日記帳を見ながらの説明です。
1967年11月1日(水・現地の休日)、2日(木)、5日(日)夫々早朝に日本から到着の
お客様を空港に出迎え、
1日(水)〜5日(日)迄連日、上司と共にそのお客様方夫々との業務打合せやお世話が続きました。
6日(月)朝、デンカ事務所のCR技術担当者A氏と共にスイスZurichに初出張し、顧客2社を訪問。
7日(火)朝スイスのデンカCR販売代理店との業務打合せを終えて、午後Dssd に戻る。
8日(水)朝、今度はDenka Dssd の営業担当H氏と共にHungary の首都Budapestに出張。 未だ
三井物産の駐在員事務所が無かった地域なので、我々2人で翌日、翌々日、即ち
9日(木)、10日(金)の2度に亘り化学品公団“Chemolimpex Budapest”(ケモリンペックス・ブダペシュト)
を訪問して商談。 その晩にAustriaの首都Wien(あるいはVienna)に移動し、
11日(土)朝三井物産ウイーン駐在員事務所でデンカCRのマーケティングに就いて打合せ、
夕刻の飛行機でDssdに戻る。
12日(日)は休日にも拘らず、独物に出社し、出張レポートを作成。
13日(月)はDENKA Dssdの営業担当H氏と共にSwedenの首都Stockholmに出張し、
14日(火)朝から現地の販売代理店社長の案内でCRの需要先4社を訪問して商談。 終了後隣国
Denmarkの首都Copenhagenへ飛ぶ。
15日(水)客先1社訪問の後、デンカ H氏と共にCopenhagen から、遠くYugoslavia(当時)の首都
Belgrade(Beograd)へ飛ぶ。 当時の東欧圏COMECON諸国では何れも輸入公団を通し
て購入していましたが、Yugoslaviaだけは各工場と直接商談し、成立すれば商品を
直接納入して代金を直接回収する仕組みになっていました。そこで、
16日(木)、17日(金)両日はMBKのBeograd駐在員の協力を得て、長時間ドライブの末、米国
デュポンや、ドイツのバイエルからクロロプレンゴムを購入している地方工場2社を
訪問し、デンカ CRを紹介し、サンプルテストを依頼して引上げました。
18日(土)にスイスのZurich経由Dssdに戻ると、先輩から次の出張用航空券を渡されました。
19日(日)夕刻、単独でSwedenのStockholmに飛び、
20日(月)〜22日(水)の3日間MBKの販売代理店社長の案内で、Sweden 各地のCR需要先はじめ
ポリエチレンや塩化ビニールの需要先を含む数多くの企業を訪問し、日本のプラス
チック樹脂の紹介をしました。 22日の夕刻Swedenから隣国Norwayの首都Osloに
移動して一泊し、
23日(木)にMBKの販売代理店の案内でプラスチックを原料とする製造会社3社を訪問した後
Norway西南部の商業都市Bergen に移動して一泊。
24日(金)その周辺のプラスチック原料需要先2社を訪問し
25日(土)に漸くDssdに戻りました。
26日(日)はドイツに着任後初めての休養日になりました。
27日(月)独物に出社し、着任以来の営業活動のレポートを作成してMBK本店のCR担当課に郵送。
28日(火)独物の化学品課長と先輩担当者に、これまでの出張結果報告と今後の営業戦略を
打合せました。
29日(水) デンカ Dssdの営業担当H氏と共にEssen市に在るDenka CRドイツ国内販売代理店を訪問し
CR販売拡大計画の打合せ。 同日夕刻Swedenの販売代理店社長が来独したので、Denka
Dssd の5人と共にSwedenにおけるCR拡売策を打合せた後会食。
30日(木)は久々にOffice でデスクワーク。
以上が独物でデンカCRを中心とする各種プラスチック担当者として、最初の1か月に行った
販売活動でしたが、常識では考えられない頻度の連続出張の1か月でした。
まさに企業戦士として、商品と云う鉄砲玉を抱えて、経済戦争に突入する活動の始まりでした。
米国Du Pont 本社から三井ポリケミカル経由で、私の欧州内販売活動に抗議
その1〜2ヵ月後のことだったと思いますが、次の様な出来事が起こりました。実は独物
転勤の直前に三ポリ(三井ポリケミカル)の幹部から同社生産のプラスチック(原料レジン)
を欧州に輸出してもらいたいと依頼されたので、欧州各国の企業に商品売り込みの努力を続け
ていました。 ところが突然三ポリ幹部から国際電話が入り『親会社のデュポン米国本社から
電話があって、ヨーロッパ各国でZ embaと云う男が、三ポリのプラスチックの売り込みをして
いるが、止めさせてもらいたいと強い要請が有った。 ついては、こちらから御願いした事
だが、マーケティングを止めて欲しい』とのことでした。 それを聞いて、欧州に於ける私の
販売活動の全てが、米国のデュポン本社に知られていると云う、Du Pont社の情報収集能力の
凄さに、脅威と恐怖を感じたことが忘れられません。
長女誕生と、ドイツの労働ビザ取得 二つの吉報
独物Dssd着任の翌年1月11日にRumaniaでの商談を終えた私は、12日早朝の飛行機に乗り、
WienとFrankfurtで2回乗り換えて夕刻Dssdに到着し、独物が新年会を開催している中華料理
店に直行しました。 そこで東京の本店から私宛に届いたTelexを渡されました。そこには
「女児誕生」と書かれています。 最初の子の誕生は特に嬉しかったですが、会えないのは
実に残念で辛いことでした。それと同時にドイツの労働ビザが取れたことも知らされました。
二つの吉報に、勇気がまさに沸々と湧き立ってくる感慨が、今でも鮮明に思い起こされます。
当時は、最初の海外転勤後1年経過して、本人が現地の生活に慣れた頃に、初めて家族を呼び
寄せることができるという社内ルールがあったので、長女綾子に初めて会ったのは1968年
11月8日早朝のDssd空港でした。
家族が来ても、同じペースの出張で多忙
家族という寛ぎの後ろ盾も整いました。それこそ一心不乱、仕事に邁進あるのみです。
1年中、東欧圏を中心にドイツ近隣諸国巡りです。来る週も来る週も、殆ど月曜日出発、
土曜日帰宅の出張が延々と続きました。ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニア、
ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、東ドイツを初めとし、西欧圏ではオーストリア
スエーデン、ノルウエー、デンマーク、オランダ、ベルギー、スイス等々も含め、出張に
次ぐ出張でした。その為ドイツに居ることが極めて少なく、「お宅は母子家庭ですか?」
と妻が質問されたそうです。
家族が来てからも、常識では考えられない程の忙しさが続きましたが、それでも楽しい
ことも有りました。ドイツ人は常識として毎年夏には長期休暇を申請し、殆どの人が南の
スペイン・ポルトガル・イタリー・ユーゴスラビアなどでのんびりと、長い人では1か月間
休暇を楽しんでいました。 お蔭でドイツ三井物産では我々邦人にも、1週間の夏休みを許
していたので、私は毎年夏の休暇の1週間前に、先ず家族だけをスペインかイタリーに行か
せて1週間後に私が合流し、その1週間後に家族と共にドイツに戻っていました。デュッセル
ドルフは曲がりくねったライン川に囲まれた地形の所為で雨や霧が多く、年間日照時間が
ドイツで一番短いため、家族の健康のために毎年太陽の強い光を浴びる目的で、スぺインか
イタリーの海岸のホテルに泊まり、1年分の太陽光を浴びて、次の1年間頑張る精神力を蓄え
ていました。また、ドイツ勤務4年目の9月に次女百合子がデュッセルドルフの病院で生まれ
ましたが、私は出張中で、直ぐには会いに行けませんでした。
ポーランドの悲しい過去
最も大きなお客様であったポーランドには悲しい歴史遺産が有りました。嘗てヒットラー
時代にドイツがユダヤ系ポーランド人等を捉えて送り込んだ「アウシュビッツの収容所」が
そのまま残され、一般公開されています。ある時私はデンカCRの需要家工場を訪問した帰りに
その近くのアウシュビッツの収容所跡に寄りました。 そこには多くの建物が有り、犠牲者
の髪の毛や、メガネ、靴、衣服、杖、他様々な物が山と積まれた部屋が並んでいます。何度
も行った記憶が有りますが、その時は偶々ロシア人の団体が数台のバスで到着し、収容所の
隣に在る建物に入って行くので、ついて行くと映画館でした。そこで見た映像は、一生忘れる
ことが出来ません。 ドイツ人が捉えたユダヤ人などを使って行なった、生きた人間の人体
実験の記録映画でした。 また大勢の囚人を裸にして、ガス室にギュウ詰めにし、毒ガスを
吹き込んで殺す映像、大きな穴を掘って大量の死人を放り込む映像等々、信じ難い残忍な映像
にショックでした。 余りの残酷さに館内にはロシア人たちの泣き声が広がり、異様な雰囲気
でした。後で聞いたのですが、ドイツ軍が撮影したフイルムはロシア軍に接収され、後にポー
ランドに渡されて「アウシュビッツ収容所」の映画館で、公開されるようになったとのこと
でした。 また、別の機会に、公団の或る幹部と会っている時、突然上衣の腕を捲り、これ
はアウシュビッツに収容された時に焼き付けられた「囚人番号」だと説明し、彼は自分が
ユダヤ人だと言い、「貴方は日本人で幸せだった」と涙を流しながら語りました。また別の
機会にも、CR納入先の工場を訪問した際、或る従業員から同じような「囚人番号」を見せられ
再度ショックを受けました。
上記の様な、第2次世界大戦に係るナチスがらみでドイツは嫌われているようでした。
また米国は全く体制の違う国と考え馴染みが薄かったようです。こうした国民感情も背景に
あり、そこに私達日本人の真正面からの手を尽くしての商談姿勢が評価され、日本製品の
売り込みは次々と成功していきました。特にポーランドでは、嘗て日露戦争で日本が勝利
を収めたことも、日本への好感要因になっていることが窺い知れました。
また、デンカ営業担当者との二人三脚ばかりでなく、技術担当者が工場を回る際には
必ず同行して、工場の現場で多くの付帯情報を手にすることができました。即ち、相手先が
どんな品質を求めているのか手の内が分かる訳です。商談折衝先は、当時の東欧圏では所謂
「公団」なる国の組織でしたが、相手の手の内を掴んでいるので、先方の価格値切り交渉に
おいても攻め際、引き際を旨くコントロールでき、有利な交渉に持ち込むことができました。
昔の事にて、差支えないと思いますが、せめて小さな声で申し上げますと、強力な米独の
競合先発2社を制して、5年後には、デンカCRの東欧圏最大の客先であるポーランドのケース
では、何と50%超のシェアを獲得するまでに至ったのです。
5年間ドイツ駐在員として懸命に頑張り抜き、帰任
帰国に際して米国に立ち寄り、或る調査をしてくるよう命じられたので、家族連れでニュー
ヨーク経由帰国することになりました。 1972年10月30日にDssdを出発し、New YorkとLos
Angeles で仕事を終えて、11月10日に帰国しました。 生後満10か月でドイツに渡った長女
綾子は、その時既に満5歳になっていました。 それまでドイツの幼稚園で友達とドイツ語で
遊んで、帰ってくると、母親が習いたてのドイツ語で応答していたので、日本語が話せません。
帰国して幼稚園に入れて暫くすると突然、円形脱毛症になり、長いこと通院させた後、外国
人の子供も居る別の幼稚園に転園させました。子供が親の転勤の犠牲になり、精神的な病気
で通院するとは、想像も出来ない事でした。
ドイツ物産への再赴任
帰国後は課長代理として合成樹脂関係の仕事を続けていました。ところが、それから3年
半後、課長だった時に、再度デュッセルドルフ勤務を命じられました。 今度はプラス
ティックス・ディビジョン・ディレクターとしてのドイツ勤務です。 再転勤の事を家族に
告げると、8歳の長女綾子は、言葉のトラウマの所為で、「私は行かない、1人で残る」と
強く抵抗するのです。 間を置いて何回も「デュッセルドルフに新しく出来た日本人学校に
入れてあげるから」と諭して、無理むり連れて行くことに成りました。 ドイツ生まれの
次女百合子は満1歳で帰国し、4歳半だったのでDssdの幼稚園に入れました。東京生まれの
三女貴子は満1歳だったので初渡航です。 5人家族での転勤でした。
暗黙の約束事としては2〜3年の筈でしたが、今度は6年半の長期に亘りました。 最初の
5年間を併せると11年間半のドイツ長期駐在を体験することになりました。 前回勤務時の
積極的な拡売努力を後任者が引き継いでくれていたので、有難いことに、後半のドイツ勤務
時代には、既に各種プラスチック原料販売は軌道に乗り、独物内では稼ぎ頭になっていたの
で、安定した華の駐在期間であったと思い起こされます。
EC(European Community)による突然の検査
それでも或る日EC(EUの前身)本部から2人の係官が突然来社し、デンカ CR の販売責任者
として私一人が呼び出されました。 そして接客室でデンカ CRに関する帳簿全てを徹底的に
調べられました。 その目的は一切言いません。 係官はドイツ人とフランス人でした。
帳簿調べを終えたところで、フランス人係官が「Dumping(不当廉売)が成立する」と言い
ました。 私が驚いた瞬間、上司と思われるドイツ人係官が「No!」と言いました。
その後暫く二人が話し合っていましたが、結論としてダンピングは免れ、ホッとした次第
です。当時は特に日本とフランスの間の貿易摩擦が頂点に達し、日本製のテレビがフランス
の荷揚げ港の倉庫に山と積まれ、通関手続きが意図的に遅らせられていると耳にした事があ
るので、あのフランス人係官が「ダンピング」を主張した気持ちは分りますが、あくまでも
冷静に、理屈通り、正確に事を進めるドイツ人に依って救われた思いでした。
万一ダンピングの嫌疑と成れば、デンカと物産両本社に調査が入り、大問題となったことで
しょう。
競争相手デュポンとの奇妙な関係
前回ドイツ勤務中は、殆ど電気化学工業の「デンカクロロプレン」専任担当者でしたが
2度目はドイツ三井物産 Plastics DivisionのDirectorとして、合成樹脂全般の総責任者
でした。即ち鐘ガ淵化学の「カネエース」、クレハ化学の「クレハロン」、東レの「ルミ
ラー」や「トレファン」、三ポリの「アドマー」等々全ての責任者した。
更に私はオランダのDeventerにある、呉羽化学と三井物産の共同出資子会社「クレハロン
インダストリー」の役員を兼務していましたが、そこの工場で材料として使う特殊な合成樹脂
がデュポン製でした。 しかもヨーロッパ中で最大の量を消費する会社で、購入責任者が私
でした。 つまりZembaと云う日本人は、デュポンにとっては、各種プラスチック販売の最大
競争相手であると同時に、大切なお客様と言う、厄介な存在でした。 ある時、購入者として
の立場で、スイスに在るデュポンヨーロッパに打ち合わせのため訪れた時のことです。会議室に
通されたところ、大テーブルにズラリと6〜7名程の男が居並んでいました。何事かとビックリ
しましたが、各種プラスチック夫々の責任者でした。恐らく「膳場」はプラスチック全ての
責任者で、俺たちを困らせる最悪のコンペティターだろうから、どんな人間か見てみたい」
と、待ち構えていたのでしょう。
目的の特殊樹脂の責任者と私との打合せを全員で聞いていましたが、商談が終りその担当者
が私を食事に誘ってくれた瞬間、居並んでいた他の全員が、「駄目、駄目、こっちと一緒だ」
と私を取り合うので大変驚きました。 私からプラスチック市場の関連情報を引き出そうとす
る彼らの気迫に圧倒された記憶があります。 本人の感知しないところで、デュポン内部では
競争相手としてそれなりの有名人になっていたんですね。 改めてデュポン社の情報収集能力
に驚くとともに、ヨーロッパ各地で日本のプラスティック・レジンや製品を紹介している私の
行動が全て知られていることに、改めて脅威を感じた次第です。
デンカ クロロプレン50周年記念
ここで最近の話になりますが、2012年11月にデンカクロロプレン上市50年記念が行われ、
翌年記念誌が発行されました。 その時デンカからの依頼により、私も欧州でのCR市場開拓
時代の記録を含む原稿を投稿しました。 そんな関係も有って、翌2013年11月のことですが
デンカの元ドイツ駐在員で、後に専務として技術分野のトップを務められたN氏に誘われて
デンカのドイツ駐在経験者数名と共に、糸魚川のクロロプレン工場を見学に行きました。
そこには、半世紀前の工場とは全く比較にならない、立派で大きな工場が在りました。
工場長、副工場長以下関係者の方々から最新の情報説明がありました。 その中で、既に
デンカが米国デュポン社と独バイエル社を追い越して、現在では世界一の生産量を誇るまで
に成長を遂げ、日本の外貨獲得に大いに貢献している事実を、改めて確認出来たので、大変
嬉しく思いました。こうした発展に少なからず寄与出来たことを自負するところです。
6.「休憩その1」家族に関する逸話
ここまでは、仕事のことばかり話していましたが、ご要請に従って、家族のこともお話し
しましょう。不思議なことに、私の家族や兄弟は皆筑駒と何らかの繋がりを持っています。
2度目のドイツ着任は1976年5月26日でしたが、家族は学校の都合で丁度3か月後の8月27日に
デュッセルドルフに着きました。 長女綾子は満8歳半だったので、約束通り日本人学校に
入学させ、次女百合子は満5歳直前だったので幼稚園に入れました。 三女貴子は満1歳6か月
の赤ん坊でした。
長女綾子にはドイツでも好きなピアノを続けて習わせていたところ、1980年春12歳の時に
Jugend Musiziert(青少年音楽コンクール)に参加しました。 すると Duesseldorf市で優勝し
市が所属するNordrhein Westfalen州でも優勝して、5月4日デュッセルドルフ市のコンサート
ホールTon Halleで開催された優勝者表彰式で、ピアノの部では綾子が優勝記念の演奏をし、
大喝采を受けました。 然しドイツ全国大会では入賞出来ませんでした。ところが1982年14歳
の春に再挑戦したところ、デュッセルドルフ市・州・と勝ち進み、6月4日ニュールンベルグで
行われたドイツ全国大会に於いて、ピアノの部3位に入賞し、綾子の演奏がラジオで全国に流
されました。 丁度その日に東京から8月1日付で三井物産本店への転勤発令の電信が入り、
同時に東京の合成樹脂部から若手のT君(筑駒14期)がドイツ三井物産の合成樹脂ディビジ
ョンに着任しました。私の帰国も近付いていましたが、子供の転校準備を考えて、7月31日に
家族を先行帰国させました。
ところで次女百合子は筑駒と色々な関係が有ります。まず、ドイツで日本人学校の小学校
5年生の時、担任の先生が筑駒3期、即ち私と同期生のI氏だったのです。 次に彼女が東大
文三時代の同級生のT君が、筑駒3期のT氏の息子さんでした。更に百合子が現在社会心理学
の准教授として勤務している早稲田大学の総長が、2代続けて筑駒OBです。なんと不思議な
ご縁でしょうか?
更に次の様な繋がりも発見しました。筑駒時代に同級生で皆から「イケちゃん」と呼ばれ
私も親しくしていた人気者のI君が、芸大ピアノ科に在学中に亡くなり、その後友人たちで
編集した追悼文集が、半世紀以上経った後で、書棚の隅から出てきました。私が書いた追悼
文に目を通した後、パラパラと頁を捲ると「館野泉」とあるので驚きました。実は長女綾子
が帰国後、NHKの番組「ピアノと共に」の生徒役3人の1人に選ばれて、ICU高校1年生の4月
から9月までの半年間、毎週1回ずつ館野泉先生の指導を受けながらピアノを弾く場面が
テレビ放送されていました。あの館野泉先生が、筑駒同級生で親しかった「イケチャン」
の親友だったとは、偶然とは言え、人の繋がりにまた驚いた次第です。
その後長女綾子はICU高校の卒業試験が終わるや、卒業式には出席せずに独りドイツに飛び
カールスルーエ国立音大を受験して、受験生50人余の内合格者3名に入りました。 入学後
教授から、貴女が1番だったよと知らされたそうです。 学部卒業後は、大学院、演奏家国家
試験コース、と進みましたが、大学院以降は母校のピアノ講師を務めながら、大先生に師事
して、「演奏家国家試験」に合格し、「ドイツ国内ならば何時何処ででもリサイタルを開催
出来る資格」を取得しました。 こうして満10年在学して卒業すると、直ぐにスペイン人の
クラリネット奏者と結婚し、大学が紹介してくれた音楽校2校兼務のピアノ教師をして生計
を立てていました。
ところで、ドイツでは国立大学の学費は無料なので、綾子は学費を払わずに10年間大先生
方から1対1の指導を受けていたのですが、逆に綾子の講師料はドイツ国が負担して払って
くれていたのです。 入学した時僅か3人しか合格させなかった理由がやっと分りました。
この様な徹底したドイツ国ならではの政策に大変驚くばかりです。
そして綾子は数年後に夫がスペイン・ラコルーニャに新しく出来た州立オーケストラが
世界中を相手に演奏家募集した折に、40か国から採用された演奏家の1人として入団出来た
のを期に、スペインに移住して、夫のオーケストラを手伝い、オーケストラ団員の子女の
ピアノ教師もしながら、スペインで生まれた2人の娘の母親を務めています。
先月から今月にかけて、長女家族が4人で来日し、我が家に滞在していましたが、綾子の
ピアノ伴奏に合わせて、家内が10歳になったばかりの孫娘と2人でバイオリンを演奏して、
以前からの希望が叶ったと大喜びしていました。
ところで、家族と筑駒との縁に戻りますが、3女貴子も筑駒との接点がありました。
2004年1月12日駒場エミナースで開催された第14回若葉会懇親総会を撮影したビデオに、
後からナレーションを付けたのが、当時NHKのアナウンサーだった貴子でした。 後で本人
に聞くと、筑駒出身のNHK上司に頼まれて協力したそうです。貴子はNHKで「プロジェクトX」
や紅白歌合戦の共同司会等も経験した後、TBSに転職し、NEWS・23のキャスターになりました。
すると不思議なことに、次女百合子の文三時代の同級生T君(筑駒3期T氏の息子さん)が偶然
NEWS・23の担当ディレクターだったとは、なんと不思議な偶然でしょうか?
また、別の話ですが、筑駒で同級生だったタッチャンと或る駅で偶然出会った時に「東大
ボート部OB会で、君の弟さん(次男で元EIGHT CREW の主将)と知り合いになった」と云うの
です。 更に、私の家内の知人が若葉会の会報で私の名前を発見し、息子さんも筑駒のOBと
云うことで、一層家内と親しくなったようです。 全て偶然ですが以上の様に、筑駒との縁が
深いのは有難いです。 末の弟(3男)は筑駒12期ですから当然です。
7.「休憩その2」ドイツや東欧圏でのちょっとした思い出小箱
「ZEMBA」の逸話
ポーランドで名刺交換をしたら、私の名前(膳場)の表記「ZEMBA」に対し、何と相手の
名前もポーランド文字を英文字にした「JIENBA」(正確な綴りは忘れましたが)に似た発音
「ジィエンバ」です。ZEMBAはポーランド語では「小さな小鳥」の意味を持つようですが、
お互いに親しさがグッと増しました。然し1度だけポーランドで名前の為に嫌疑をかけられた
ことがあります。 資本主義国からの客は、外貨でしか泊まれないホテルに泊まり、チェック
インの時にパスポートを一時預けねばなりませんでした。 ある時ホテルに戻ると、受付で
「警察から貴方に出頭命令が出されたから、直ぐに行ってくれ」と云われ大変驚きました。
その場で直ぐ、新たに開設したばかりの三井物産駐在員事務所に電話して事情を話すと、
応答した女子事務員が直ぐに調べてくれました。その結果警察に出頭の件は取り消され、
事無きを得ました。 後で駐在員事務所長に訊くと「彼女は最近まで警察に勤めていた人だが
君がポーランド出身者ではないかと疑われたそうだ。」と説明され、驚きました。 また、
ドイツでも最初の赴任時、警察に免許証を受け取りに行った際、「ZEMBA」の名前を見た係官
から「貴方の父親かお爺さんはドイツ人だろう」と云われました。またある時、ガレージに
前月分の駐車料を支払った際、受付のおばさんが、「えっ、私と同じ名前???」と驚く場面
もありました。
日本人の名前を覚え難いヨーロッパ人の中で名前を憶えてもらった利点は大きかったと思いま
す。誰に感謝すればいいのでしょうか?
(注) ドイツ人はMr. ZEMBAを「ヘア ツェンバ」と発音するので、ドイツ勤務経験者との飲み
会等で「チェンバさん」と呼ばれ、一緒に大笑いすることもありました。
ハンガリーでの小話
ハンガリー民族の原点はフン族です。赤ん坊に青い「蒙古斑点」が現れることからも、
日本人にも通じるモンゴル系なのでしょう。ある意味、日本でもありそうな独特の意識が感じ
られます。ある時、取引先の公団から、何の前触れも無く不満の電話がかかってきました。
「問題が発生している。トップが怒っている。これだけデンカ CRを購入しているのに、東京
の責任者から挨拶が無いのはどういうことだ!」と。 早速東京の本社に連絡したところ早々
にお土産を抱えて、デンカと三井物産のしかるべき役員が飛んできてくれました。 すぐに
案内して公団のトップに挨拶し、謝罪したところ、事なきを得ました。ヨーロッパの中では
独特ですが、日本人と同様に礼儀を重んじる民族の意外な一面を見た思いがしました。
余談ですが、フィンランドもフン族の分派です。フィンランドとハンガリーでは互いに言葉
も通じると聞いています。 この遠い延長線上に日本も係わりが有るのかも知れません。
水は「ビズ」、塩は「ショ」と発音されます。同じウラルアルタイ語族でしょうか?
ユーゴスラビアの汽車の中で
ドイツから出発し商談先のルーマニアに向かった時の事です。大雪になって、ユーゴスラ
ビアで飛行機から寝台列車に乗り換えることになりました。同行したデンカ営業担当のH氏が
車内で浴衣に着替えたところ、「キ・モ・ノ、キ・モ・ノ」と、よほど珍しかったのか、大勢
の乗客に取り囲まれました。そして、「酒を飲め、飲め」と勧められ、大いに皆から友好の意
を示して貰ったのです。
ルーマニアでのおかしな措置
ある時、ルーマニアの化学品公団から電話が掛かってきました。「受け取ったクロロプレン
ゴムの積荷に、荷崩れによる破袋の発生がある。」とのこと。しかし、契約上はFOB(Free on
Board)、即ち、出荷に当たり船に積み込んだ後は、ルール上買い手の責任ですから、当方は
本来、免責です。しかしながら、どうしても現場に来てくれとの要請があり、デンカの担当者
H氏と一緒に船着き場まで出向きました。黒海に面した港です。ところが、現場に着いてみると
何と「この問題は解決した。既に貨車は出発してしまったので、もはや、自分の責任ではない。」
と云うのです。あくまでも自分に責任がかからなければ、後はどうでもよいと云う世界です。
共産主義と云うものの、不思議な世界に驚きましたが、翻って、ここはいいチャンス。転んで
もタダでは起きない商社マン魂が頭をもたげます。自由経済の国とは違い、この国では、公団
の人の接待は普通出来ませんが、ここは中央から遠く離れた港ですから、仕事の打ち合わせと
称して、公団の2人を大いに接待したのでした。
これもまたルーマニアですが、レストランに入っても誰も注文を取りに来ない?
別の機会の出来事ですが、出張同行者、デンカのH氏とホテルのレストランで早めに食事を
することになりました。ボーイさんは皆壁際に立っています。入口でマスターらしき男に訪ね
ると、「どこでも好きな席に座って下さい」とのこと。しからばと、適当なテーブルを選んで
着席すれども、誰も注文を取りに来てくれません。再度マスターに理由を尋ねると、「その
テーブルの担当者は、今日は休み」とのこと。ならば何故それを先に云わないのかと腹立た
しかったが、席を替えて待つと、壁際のボーイ1人が、「やれやれ、ついてないな」との面
持ちで注文を取りに来ました。給仕をしようがしまいが、給料に変わりが無いのでしょう。
サービス実務に当たった分だけ損をしたような思いをする様でした。 制度の崩壊した今、
もはや、こんな状況は無いと思いますが、当時の共産主義国家には信じられないことが実際
にあったのです。
ところが、逆に昔と違って、自由化後はスリが横行 ハンガリーでの経験
ここでの逸話に加えるのは相応しくないのですが、対比するためのご参考情報です。現役
を退いてからの話。 15年前位に、NHK文化センターで水彩画を習うクラスに入りましたが
東欧へのスケッチ旅行をしようという先生の提案により、7〜8名でチェコからハンガリーに
行ってきました。昔と違ってスリが横行しているからと事前に注意を受けていたとおり、電車
の中で怪しげな白人3人が目に止まりました。好奇心が相変わらず強いんですね。予め財布や
大切な物は隠して、小物入れ等の中身を空っぽにしておき、仲間から離れて、わざと彼らに
近づいてみました。すると案の定、3人にさりげなく取り囲まれ、いろいろと話しかけられ、
「電車が揺れて危ないからこのポールにつかまりなさい」と言うのです。そら来たと思った
瞬間ポケット等を探られましたが、どうやっても目的物に当たりません。流石に、おとり
捜査官かと恐れをなしたのでしょうか。 次の駅で停車した瞬間、3人揃って脱兎のごとく
車外に逃げて行きました。痛快でもありましたが、西に向かって開かれた扉からは、外国の
悪い環境も同時に流入しているようで残念な思いです。
朝ベッドに置いたチップが、夜に帰って来ても、そのまま残っていた時代とは大きな様変
わりです。
8.「最盛期40歳代半ば―50歳代」日本から海外サポート、やがて経団連の仕事に参加
順風満帆のドイツ駐在生活を終えて帰国した後は、部長代理として日本から海外をサポート
する側に回りました。そうした中、ある時社内で「スペイン駐在希望者募集」が有ったので、
予てからその希望を口に出していた、クロロプレンゴムを担当する課の課長を、スペイン駐在
として出してしまい、私がそのポストを兼務しました。 するとCRメーカーのデンカから
専任課長を置くことを強く求められました。そこで気付いたのは、丁度当時の社長が会長に
なったばかりだったので、社長秘書を5年余務めた男を返してもらい、CR担当課の課長にし
ました。彼は2度目のドイツ駐在時代前半の部下でもあり、デンカCRの担当をしていたことも
あって、デンカから信頼されていたので、後任課長に最適で、デンカからも納得してもらえ
ました。 ところが、その反動が自分に跳ね返ってきました。
経団連の副会長になったばかりの会長から、「それなら、膳場君、君が俺のブレーンをやって
くれんか?」と命じられ、秘書室に席を置くことになりました。私にドイツ駐在の命を発した
当時の部長が、実はその時、社長、会長へと上り詰めていたので、断り様が無く、引き受けま
した。
その当時は、日本と先進国との貿易摩擦が大きな問題となっていたので、経団連は忙しい所
でした。 経団連会長は一人ですが、副会長は多数いて、全て大手株式会社の会長でした。
当時は日本の凄まじい成長期で、先進諸国との貿易摩擦が問題になっていました。 特に米国
とは定期的に「日米財界人会議」を日本と米国で交互に開催していたので、その事前準備で経
団連の実務者との打合せを頻繁に行ないました。 会議は、鉄鋼、自動車、家電、機械、化学
品等々に分れて行うので、夫々の製造会社から出ている副会長が、夫々分科会の日本側議長を
務めることになっていました。 然しどの会社にも属さない、農産物、海産物、肉類、ワイン
等々は商社の三井物産が担当させられたので、社内で夫々の品物の取り扱い部の部長達から
情報を収集しては会議の準備をしていました。 このような国際会議の為の外国出張は毎年
8回位ずつあったので、情報の収集と国際会議の準備に明け暮れました。 全くの偶然ですが
経団連の幹部に私の大学時代のゼミの1年後輩が2人(1人は後に経団連事務総長、もう1人
は後に大学教授)いたので、慣れぬ仕事の上で大変助かりました。当時の経団連では、会長や
多数の副会長、即ち大企業の会長とその秘書連中がおり、頻繁に一緒に海外出張をして親しく
なりました。 そんな背景もあり、偶々私の三女貴子(インタビュアーリマインド注:元NHK
アナ、現TBSキャスターの膳場貴子さん)が、2・3年前に経団連会長にインタビューした時
冒頭から「貴方のお父さんはね、・・・」と、父との深い親交がある旨の紹介から始まって
しまい、大変驚いたようです。 ところで秘書室勤務は原則2年の不文律が有ったので、2年
経って会長に申し出ると、会長から「そんな冷たいこと言わんでくれよ、経団連副会長の任
期満了まで頼む」と口説かれ、結局は4年半務める結果となりました。この経団連に関わる
業務を通して、実に多岐の業種に亘って多くの人と知己を結ぶことができました。 当時の
経団連会長・副会長の殆どの方が既に他界されました。当時の秘書役だった方々も、夫々の
会社の幹部を務めた後、殆どが既に退任されましたが、私の大切な人的財産となっています。
9.「癌と戦う50歳代」 大阪支店では、合成樹脂部長として苛烈過ぎた奮闘
こうして、どこの職責に就いても大いに貢献してきたとの自負がありましたが、会社人生
の総仕上げとすべき年齢に近づいてきました。秘書室から古巣の営業部門に戻ることになり
ました。 昔ドイツで上司だった専務から「今東京には部長ポストが無いから、同格の大阪
でも良いか?」と訊かれ「大阪も是非経験してみたい」と返事をしたお蔭で、私は現在まで
命を繋ぐことができたのです。
関西支社の合成樹脂部は、次長と数名の部長代理、10グループ(課)の主席(課長)10人
各グループのメンバーは5〜10人、総勢80名弱で、私は部長としてその大所帯を束ねること
になりました。ところが、経団連に係る業務を主に、グローバルな活動をしていた4年半の
間に、専門の筈だった合成樹脂も飛躍的に進化しており、何と、ど素人のレベルに取り残さ
れていたのですね。大いに焦りましたよ。何とか、早くその業界水準に追いつかなければと
思い、各課長の要請に応じる方式で、時間の空いている限り、各課長を通して、三井物産の
取引先とどんどんアポイントを取っては、プラスチック業界関係者と会うことに努めました。
その結果は、毎晩がお得意様、即ち大・中・小企業の社長や専務等との会合予定で埋まって
しまう有様でした。相手はお客様ですからこちらが招待すれば、相手からは倍返しの接待が
返ってくるが拒否できない。それが大阪の商い風土かと覚悟を決めました。アルコール分解
酵素が少ない体質の私には、お得意様の社長や専務との付き合いが苦痛の連続でした。
暴飲はせぬものの、連日の疲労が溜まった結果でしょう、膀胱癌を罹ってしまいました。
年1回外部の定期健診で2回パスしてしまった膀胱癌を、尿の顕微鏡検査で発見し、大阪府立
成人病センターに送り込んでくれたのが、会社の医務室の先生で、偶然にも泌尿器科専門の
医師でした。もしその医師でなかったら発見が遅れ、この世には居なかったかも知れません。
その点では幸運でした。しかし人生で最も華の生活を送る時期に、逆に最も苦しい時を迎え
てしまいました。入院中も毎日小型ポケット日記帳に記録していたので間違いありませんが
大阪府立成人病センターでの98日間の入院は実に苦しい日々でした。
最初は入院事情を外部には隠していたのですが、重要な打合せや、合成樹脂業界の会合に
三井物産の部長が出席しないとはけしからんと周りで騒ぎ始めたので、1か月後には関係先に
通知しない訳にはいかなくなりました。すると連日お見舞い客が殺到しました。合成樹脂部
のメンバー約80人が受け持つ仕入れ先と販売先は数知れぬ程多いので、有難いことではあり
ましたが、抗癌剤の点滴中にお見舞い客が来られれば、病院の面会室まで点滴機材を引き摺
りながら出向いてお相手をしなければなりませんでした。抗癌剤の影響で髪の毛が全部抜け
やつれた姿での面会は精神的にも苦痛でしたが已むを得ません。 口には出せない苦痛の
連続でした。入院中抗癌剤投与を行わない時には、毎朝11階の病室から階段で地下の売店に
行き、新聞を買って、また階段で11階に戻り新聞を読み、次にジュースなどを買う為に同様
に階段で往復することを日課にしました。 時々階段で医師に出会うと「貴方は絶対に死な
ないよ」と励まされ、そのお蔭で生命への貪欲が高まり「絶対に死なないぞ、必ず生き抜い
てみせるぞ」と心の中で自分に言い聞かせて病院内を歩き回りました。
膀胱癌の手術は56歳の時でした。1992年10月15日に入院してから98日目の1993年1月20日
に退院し、久しぶりに出社すると、既に後任部長候補者が着任していたので、早速業務引
継ぎの仕事に取り掛かった次第です。 この入院中に次女が見舞いに来て「奨学金の申請
をするから、パパの入院証明書を書いてもらって欲しい」と云うので、主治医に頼んで書
いて頂き、次女に渡してやりました。 恐らく私が癌で死ぬと思っていたのでしょう。
大学受験直前の三女貴子には、私の癌を隠していました。
退院してから1か月近い時だったと思いますが、三女貴子から電話が有り「パパ、浪人
していい?」と訊くので、何も聞かずに「ああ、いいよ」と答えて電話を切りました。
それから暫くして、出張先から会社に戻ると、秘書が「お嬢様から電話があり、文3に決ま
りましたと。」と云うので安堵しました。実は私の弟で筑駒12期の渋谷信男(夫人の母親
の実家である渋谷家に、家族全員で養子縁組して苗字変更)の長女が高校の先生から、
「あなたは東大を受けなさい」と云われ、公開模擬試験で上位に名前が出るのを見ていた
貴子(当時女子学院高校3年生)は、相当気にしていた様です。その為か、東大の合格者発表
日に、自分一人では怖くて行かれず、次女百合子にどうしても一緒に行って欲しいと泣き
付いて、スキューバダイビングのレッスンに行く予定を無理に延期させて、付いて行っても
らったそうです。結果は、幸いにして従妹と共に合格できたのですが、百合子は仕方なく
1週間遅らせて、スキューバダイビングの指導を受けに西表島(イリオモテジマ)に出か
けました。 そこで出合った男性S君が、現在百合子の夫なので、貴子は事ある毎に「ユリ
がSさんと結婚できたのは私のお蔭だ」と威張り、百合子夫婦が苦笑いしているので、実に
愉快です。
10.「50歳代半ばから62歳の退職迄」―――癌との戦いの時代
私はもはや激務には耐えられない体と判断され、東京の出身部に戻されました。これでは
商社マンは務まらないと思っておりましたところ、三井物産の子会社であり合成樹脂部門で
管理していた、社員600人程で2か所に工場を持つヤマト化学工業(株)に代表取締役副社長
としての出向を命ぜられました。乗用車の内装材や住宅の壁紙を製造、販売する会社です。
然し未だ体に自信が持てないので「代表取締役は外してほしい」と頼みましたが、「代表取
締役は複数とする決まりがあるから引受けてもらいたい」との社長命令で止むを得ず引受け
ました。
その1年後大阪府立成人病センターへの検査通院で、再発が見付かり、手術を命じられま
した。然し今は東京に住んで居るので地元で手術を受けたいと云うと直ぐに、研究関係で
緊密な交流のある築地の国立癌センター中央病院の院長及び泌尿器科部長宛に夫々紹介状を
書いて下さり、2度目の手術は1994年3月30日〜4月15日東京で入院し、手術を受けて快復
しました。 その後引き続き定期的に検査通院を繰返していたところ、1年後に再発が見付
かり同病院で、1995年2回目の手術をして直した後、毎月通院しましたが、その1年後に
再々発し、癌センターでの3回目手術を1995年に受け、膀胱癌はそれで治まりました。
それでも定期的に通院し検査を受けながら、仕事は普通にこなしていました。
その3年後に尿からがん細胞が発見されました。然しどこから出たか特定できず、癌セン
ターに入院して癌を探しましたが、なかなか見つからず、3回目の入院検査で漸く見つかった
次第です。 実は右の尿管の内面に表皮癌が、薄いフィルム状に貼り付いて広がり、映像に
写らない癌だったので、発見に手間取ったのです。右の腎臓と尿管の繋ぎ目まで癌が広がって
いたので、1998年11月5日に割腹手術で右腎臓もろとも右の尿管を切除しました。その後も
定期的に検査通院を続けました。 結局大阪と東京で2種類の癌の手術合計5回と、大阪、
東京合わせて、56歳から71歳まで16年の通院をした結果、「もはや通院の必要なし」と云わ
れてから既に7年経ちましたが、全く異常は有りません。
ヤマト化学工業鰍ナ6年間の任期を全うし、63歳の3か月前に現役生活にピリオドを打つこと
になりました。 なおヤマト化学工業鰍ナは、高齢の監査役が病気で退職した為、彼の任期の
残り1年間を私が代わって監査役を務めました。 監査の仕事は無経験でしたが、三井物産が
関係会社の監査役を集めて、三井物産の監査役共々勉強会を開催していたので、私は毎月2つ
の講座に参加して勉強しました。 そのお蔭で、現在も微力ながら、若葉会の監査役を何とか
務める事が出来ている次第です。
なお、ヤマト化学工業(株)は、主に自動車の内装材を製造していましたが、カナダの企業に
技術輸出をした事が有ります。その仕事で私をフルサポートしてくれたのが、同じく三井物
の合成樹脂部門からの出向でヤマト化学の重要な部署に席を置いた、筑駒の後輩14期のT君です。
彼はドイツ三井物産の後輩でもあり、同窓というのは本当に有難いですね。
私が退職してから数年後、自動車内装材の納入先である大手自動車メーカーから、自動車
製造の原価低減に協力する形で、ヤマト化学が納入する乗用車内装材の納入価格の大幅カット
を強要されました。これでは、会社は立ちいかないとの判断から、親会社三井物産は、ヤマト
化学工業(株)の株主であった大手プラスチックメーカー各社から、ヤマト化学の株を買い
取りました。 その上で、戦前からの長い歴史を持つこの会社を分割し、夫々の同業他社に
売却措置を取るなどしたので、残念ながら現在ヤマト化学工業鰍ヘ存在しません。
11.63歳直前に現役を退いた後も大忙し、78歳になった今も充実した毎日
63歳直前に退職した後は、所謂、年金生活にて本格的な職務に就きませんでしたが、なか
なか忙しい生活を送って今日に至っております。先ずは生活にリズムができるよう、そして
ボケ防止にもと思い、色々試してみました。 NHK文化センター主催の「ビデオ撮影術教室」
に1年余通い、次に「ビデオ編集教室」を試しました。続いて他の場所で「男の料理教室」
にも通いましたが、何れも長期間続けて学習する気がせず、1年か1年半で止めてしまいました。
その後NHK文化センターで「水彩色エンピツと筆を使って描く水彩画の教室」に入会したところ
今日まで続いていますし、そのグループで東欧圏を旅行したことについては、既にお話しした
通りです。
更に、ドイツ三井物産時代の他の部門の仲間が、或る懇親会でカードマジックを演じたの
を見て、私もやる気を起こしました。 その後彼の紹介で、2003年8月に、日本で最も永い
歴史を誇り、男性会員限定の「東京アマチュア・マジシャンズ・クラブ」(略称TAMC)に
入会しました。 私が入会した年が丁度創立70周年記念の時で、入会の2か月後に、創立70
周年記念マジック発表会が開催され、観客約1,600人を集めた大ホールで大掛かりなステージ
マジックを披露したのを見て度胆を抜かれ、『大変なクラブに入ってしまった。』と恐れを
なしたことを覚えています。然しその翌年から昨年まで私も毎年10月か11月に開催するマジ
ック発表大会で、約750席のニッショーホールに満席のお客を前に、マジック劇の一員として
芝居をしながらマジックを演じてきたので、今年で11回になる計算です。80人の会員を持ち
月2回の例会、月1回の研修会、年1回の合宿研修会、年2回のマジック発表会が有り、2か月毎
に会長、副会長以下14人の役員会議まで有るのです。 私は前会長から幹事長を命じられ、
引続き現会長からも幹事長を命じられて、引続き役員会の司会や、対外的な雑用を担当して
います。 この会は高齢者が多く平均年齢69歳位ですが、100歳近い会員も居ます。
大学教授、医師、弁護士、公認会計士、大企業の元社長や幹部役員、企業経営者、技術者、
等々で、有名な学者や、有名な会社の元社長もいます。 でも、会員皆さんが、昔の社会的
地位など忘れ、年齢も忘れて和気藹々とマジックを楽しみ、例会後の二次回では飲みながら
の懇談に花を咲かせています。居心地の良いクラブなので、興味をお持ちの方がおられれば
喜んで紹介致しますので、声を掛けて下さい。
次にこれも大事な役目です。ご存知のように「若葉会の監査役」を担当しています。平成
18年度に引き受けてから、もう、かれこれ丸9年になりますよ。平成26年度もお引き受けし
ましたので、来年の平成27年度を迎えた時点で丁度10年間になります。
12.皆様へのメッセージ
人にはいろいろな生き方が有り、選択は自由です。自分が得意とする事、自分がやりたい
と思う事を確りと心に決め、それを実現する努力が大切だと思います。特にこれから社会に
出られる方々は、私達の時代とは全く比べられない、予想外に大きな変化が、信じられない
スピードで起きる環境の中で活躍される訳ですから、常に幅広い視野で世界の動向を確り見
ながら、ご自分の目標に向かって進まれることを期待致します。 また、人間の身勝手で、
刻々と壊されていく地球の環境にも万全の注意を払い、筑駒出身の皆様方の力で対策を研究
され、これからの人生を、心豊かに、安全に過ごせる地球環境に戻して頂けるように期待し
ています。
筑波大学附属駒場中高等学校第3期生 膳場 昭
以上
Copyright (C) WAKABA_KAI. All Rights Reserved.