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  私の履歴書 筑駒1期 高田光雄 「時を紡ぎ見果てぬ夢」


                               
      2015年7月1日掲載

                                  インタビュアー 15期羽鳥



   


       
浜離宮庭園を知る者として、庭園の豊かな情景が生き生きと描かれていて、
       作者である高田さんの素敵な姿が、この絵の中に凝縮されていますね。
       高田さんの履歴の断面として、この他、絵画作品を後段にふんだんに掲載します。


          <注1.ここに掲載される画像は全て高田さんの作品です。>
       <注2.全ての画像は、画面をクリックすると拡大した別画面が開きます。>


       読者の皆様、お待たせ致しました。「私の履歴書シリーズ」第2弾です。


     筑駒1期の高田光雄さんにご登場いただきました。筑駒の歴史と一緒に歩まれてきた方であり、
    創設の頃を知っている数少ない方々のうちの一人でもあります。高田さんの人生に母校の変遷を
    重ねながら、是非、高田さんからの熱いメッセージをお受け取り下さい。

     さて、高田さんは、1935年(昭和10年)3月3日、東京の江古田(エゴタ)のお生まれです。
    もともとは一つの地域でしたが、現在は二つの行政区域に分けられ中野区に区分された地区では、
    「エゴタ」と呼称され、練馬区に区分された地区では、「エコダ」と呼ばれるようになりました。
    高田さんの脳裏には、幼い頃親達から聞かされていた「エゴタ」の音声が焼き付いておられます。
    インタビューの第一声は「エゴタという地名分かる?」でした。
     好奇心旺盛な高田さん、本年2015年3月3日に満80歳を迎えられました。若葉会ホームページへ
    のご登場は、傘寿の記念ともなりましょう。思う存分、見果てぬ夢を語って貰います。そして、
    描いた夢を、HP絵画展としてここに展示していただきます。鉄道模型にのめり込んだ中学生時代、
    航空機への憧れが嵩じた高校生時代、建築家として飛び立つべく醸成期の大学生時代、デザイ
    ナーとして数々の足跡を残した草創活躍期時代、筑駒開校50周年記念として建立された同窓会
    館と60周年記念としてのロッカールーム新築、並びに、本年その屋上のウッドデッキ化等は、
    高田さんの斬新な発想による成果です。齢を重ねられた後も、若葉会会報編集委員として、
    あるいは、会報の挿絵をお描き下さる等々若葉会に多大なご貢献をいただいてまいりました。
    本年2015年1月12日開催された若葉会新年総会時には、「筑駒建築の会」を立ち上げ、初代
    会長を務められることになりました。NPO「東京を描く市民の会」の常任理事として、東京の
    歴史的建造物・景観を保存する為に、凡そ800人の会員と共に水彩画を数多く描き続けて20年、
    東京都共催の展覧会への発表も数限りがありません。こうした衰えを知らぬ若々しい活動の
    源泉は、どこにあるのでしょう?
    どこまでも追求する大いなる好奇心であり、次々と湧き起こる夢を追いかけ続ける青年の心が
    もたらしているものです。

     
「時を紡ぎ見果てぬ夢」このテーマが高田さんご自身を表すキーワードです。夢は見る
    だけではなく、追いかけて実現するものです。しかし、実現すると、次の夢が湧き起こって、
    夢の尽きることは永遠にありません。実現したものは夢ではありません。

     夢一杯の高田少年が、中学生になるのを待っていたかのように、1947年(昭和22年)、東京
    農業教育専門学校附属中学校が開校しました。まさに、1期生の誕生です。そして、高校生に
    なる時まで、附属高等学校は存在していません。高田さん方1期生の高校進学に合わせ、附属
    高等学校が設立されました。従って、ここでも1期生です。何か次々と扉が開かれていく様は、
    いかにも高田さんの夢が実現していく様(さま)に重なります。裏を返せば、1期生にのみ与え
    られた特権、即ち、真新しい大地に第一歩を踏み出すようなワクワクする感触の体験が、最も
    多感な時期にあった高田さんを、見果てぬ夢を追い続ける好奇心旺盛な永遠の青年へと導いて
    くれたのかも知れません。そのワクワクする思いは、全員新任であった先生方も共有されてい
    たように思われます。高田さんの口からは、どの先生方に対しても「皆、素晴らしい先生だった」
    の言葉しか聞こえてきません。先生と生徒が一体となって、素晴らしい自由な校風の礎を築き
    あげてくれたのでしょう。

     前段のご紹介はこの位にして、さあ、ご本人の語りによる、高田さんの人生の一端に触れて
    下さい。そして、見果てぬ夢を、時を超えて紡いで下さい。時系列での細かい履歴ご紹介では
    なく、その時その時のエポックを中心に語られます。エポック並びに絵画作品等々、結実した
    目に見える成果に触れることが、即ち、現在と未来を生きる高田さんを理解することであり、
    特に未来を見つめる読者にとっての人生設計に係る大きなヒントを与えてくれるものとなるで
    しょう。


       



                    
                    
夢・太公望         長崎郷土玩具
  1.誕生・国民学校(小学校)                            


     1935年(昭和10年)3月3日、イノシシ年、O型、東京の江古田「エゴタ」に、姉、兄に続く
    次男として生まれました。その後間もなく、文部官僚であった父親が「東京高等師範学校」
    (東京教育大学の前身)を出て北海道・道庁への赴任に伴い、6歳まで札幌で過ごしました。
    やがて、父親の文部省転勤に伴い東京に戻り、昭和16年12月8日太平洋戦争勃発、当時は小学校
    とは言いません、国民学校の1年生の年です。間もなく、大戦の煽りを受け、志賀高原に学童
    集団疎開です。今、温泉に浸かる猿で有名な地獄谷野猿公苑の近く、文人墨客や皇室関連の宿が
    ある上林(かんばやし)温泉でした。疎開児童は親元を離れ寂しさを持て余す悪ガキ集団・当然
    の如くボスもいた、集団で喧嘩もした、いじめもあった。さながら今の猿集団の先駆的存在・
    地で行く存在でもあったのです。
    昭和20年、5年生の時に終戦を迎えました。戦後の教材はおどろおどろしいものでした。GHQが
    不都合とする箇所を授業の中で先生の指示により墨塗り削除させられたのでした。そんな教科書
    を使っての勉強でしたが、墨塗りされた箇所の方が多かったかも知れません。そして、中学への
    進学時期は直ぐにもやってきました。兄はすでに大塚の附属中学3年生、当然の事として私も
    入れるものと安易に思っていたところが叶わぬ事となりました。正直に言って今でも兄弟の関係
    で中・高校時代を振り返る時、蟠(わだかま)りとも確執ともつかないギコチなさを感じます。
    漠然と地元の高田中学校に行くものと思っていましたが、内々父親も文部省内の動きは承知の
    事であったらしく、担任の先生から東京農業教育専門学校附属中学校への入学を勧められました。
    先生には、この新設中学校の情報が関係筋より流れてきていたと同時に、相応しい生徒の推薦も
    託されていたようでした。結果、目白小学校(高田第五国民学校改称)より6名が突然の受験と
    なり、準備もままなりませんでしたが、幸い、合格者116名の中に加えて貰う事ができました、
    目出度く6名揃って大塚でなく駒場に入れたわけです…。


                            
                                  D-51
   2.東京農業教育専門学校附属中学校                      


     東京農業教育専門学校附属中学校は、1947年(昭和22年)5月1日に設置・開校されましたが
    その1期生として入学できたことは、今ある姿を素直に受け止め誇らしく思っています。旧第一
    師団騎兵第一連隊兵舎内の医務室及び車両室を改造したみすぼらしい校舎でしたが、何といって
    も、生徒と先生、事務職員全ての立場の人が学校を作り上げていくべき1期生です。誰の心にも
    夢と希望が溢れ、無我夢中が活気に繋がっていました。やがて附属高校も併設される頃、多くの
    友たちが駒場を離れ他校へと進学して行きました。中学時代を奔放に過ごした生徒の個性を如何
    に伸ばすか、今で言う中高一貫教育校としてどのようにすれば良いのか、先生方に於かれては
    未知の世界であったかもしれません。私個人的には、一貫教育を受けたことで私が今ここに在る
    と言っても過言ではありません。

     この自由な校風が影響したのだと思いますが、中学生時代は、鉄道模型に凝ってしまいました。
    振り返れば、模型製作における塩酸を使っての緻密なハンダ付作業が大きな原因だったと思われ
    ますが目が悪くなっていたのですね。黒板の字が良く見えないのにメガネをかけなかったことも
    災いし、勉強も次第に遅れをとってしまいました。親から模型ばかり作っていては駄目だ、勉強
    しなさいと言われた記憶もありません。この頃から、好奇心が人一倍強く、気が向くと、何にで
    もどんどんのめり込んでいく気質を持っていたようです。いや、校風によって育てられたと言う
    べきでしょうか?

     中学生時代の総括は、鉄道模型に尽きます。その思い出の写真を以下に掲載します。
     ご照覧あれ。



      
    
小生のSL(0ゲージ)C-62 全長約30CM 足回り駆動部分は未完成
    右手に示したのは、後日手に入れた教本、当時これがあれば苦労はしなかった。



       
                      
どれも宝物


    
以下の画像は、やがて絵画の世界にも浸り込んだ後、描いたスケッチや切り絵です。


      
     
D-51       C-58      D-51 (所謂・なめくじ)    C-59


       
     
給水ポンプ   クロスヘッド(SLの心臓)   給水温め器     驀進


     
   
C-62 (本邦最強・陸の旅客機) C-57 (SLの貴婦人)    9600 (縁の下の力持ち)


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                                小判草
    3.東京教育大学東京農業教育専門学校附属高等学校               


     さて、高校に進学する時期の到来です。進学すべき附属高校は、1期生の高校進学に合せて
    新設されましたが、前に述べたとおり中学1期生の内、2名は大塚の附属へ3分の1である約40
    名は小石川高校なり戸山高校なりと都立・公立高校へと振り向けられました。残る3分の1約
    40名は附属高校農業科に、また、3分の1である約40名は附属高校普通科に進学することに
    なりました。小生、高田は普通科に進学することになりました。
     かくして、中学校の1期生は3方向に展開しているため、同期会を束ねていくのには、それ
    なりの苦労が伴っています。一方、多方面に分岐しているため、同期会での話題は実に豊富で、
    皆、大いなる楽しみとして開催をいつも心待ちにしています。

     ところで、中学、高校とも附属元である学校名が、関連法規の改正に伴い変遷しています。
    ここで、校名の変遷につき、若葉会ホームページ筆頭でも紹介されている内容に簡単に触れ
    ておきます。1947年(昭和22年)に東京農業教育専門学校附属中学校が設置・開校されました。
    2年後の1949年(昭和24年)には、東京農業教育専門学校が東京教育大学に包括され、これに
    伴い、東京教育大学東京農業教育専門学校附属中学校と、ギネス記録にもなるのではないかと
    思われる、あまりにも長い中学校名に改称されました。続いて、1950(昭和25年)に東京教育
    大学東京農業教育専門学校附属高等学校が併設開校となり、目出度く、当該名である高校に
    進学できました。高校でも1期生であった訳です。その2年後の1952年(昭和27年)に、東京農業
    教育専門学校が閉校となった結果、高校・中学は、大学直属の附属校となり、暫く継続する
    ことになる東京教育大学附属駒場中学校・附属駒場高等学校と改称されました。26年の時を
    経た1978年、東京教育大学の閉校に伴い、筑波大学に移管され、筑波大学附属駒場中学校・
    附属駒場高等学校と改称され、現在に至っている次第です。
     私達は、1947年(昭和22年)に開校した附属中学校の1期生でもあり、続いて1950年に開校
    した附属高等学校の1期生でもあります。校名改称を含めた開校当初の変遷を、すべて身を以て
    体験してきたことになります。

     さて、中学では、鉄道模型に明け暮れ、勉強も大分遅れをとってしまいましたが、高校に
    入学した後は、中学の遅れを挽回すべく、やる気を出して頑張り始めました。格好を気にして
    いるどころではありません。メガネを掛けたのは勿論です。やる気を出すと不思議なもので、
    あらゆる教科がキラキラと輝いて好奇心を掻き立て、どの先生方の講義も素晴らしく感じられ
    身に迫ってくるのです。小幡先生の数学は本当に素晴らしかったです。宿題をよく出す先生
    でした、今も宿題の現物を大切にとってありますよ。ほら、下をご覧ください。


            
小幡先生の宿題・添削回答


     並行して、大塚の附属でも使っていた岩切精説と云う数学の参考書を座右の書として、兄に
    追いつくべく学びました。又、明石先生の世界史は実に良かった。明石先生の授業で、自由
    研究の発表が有りました。教生(教育大学の実習生)の前で、「聖アウグスティヌスの研究」
    発表で一時限を独占したのは、極めて痛快でした。綿引先生の英語も干天の慈雨の如く、頭
    にスイスイ入ってきましたね。国語も良かった。巻島先生の物理も誠に素晴らしかった。実際
    に、校舎の屋上から物体を落下させて位置エネルギーを計測したり、階段を駆け上る速さを
    ベースに各自自分の馬力を計算したり、具体性溢れる授業に大いに惹きつけられました。「分子
    を高速で振動・撹拌するとジュール熱が発生する」の発想は電子レンジの形で商品化され今に
    生きています。どの先生方も「素晴らしかった」の一言に尽きます。


           
         
中高の先生方職員の皆様と小金井から移築された旧・講堂前にて


      
  
  数学 小幡先生    社会 明石先生   物理 巻島先生    国語 丸尾先生


     諸先生方に恵まれた環境で勉強を頑張った成果は目に見える形で結実しました。ある日の
    ことです、父兄会に参加した母親がニコニコしながら帰ってきました。「クラスで一番だった
    よ」と言って、大きくて分厚いチョコを褒美にくれたのです。あのチョコの味は今でも忘れ
    られません。やらないから出来ないのであって、やれば、出来るのですね。勉強だけでは
    ありません。友たちは野球、バスケット、サッカー、軟式テニス、更に、当時は何と馬術部
    まであり、大いに運動にも励みました。

     また、高校時代には、ニーチェの哲学をかじり、高山樗(たかやまちょ)牛(ぎゅう)の
    「嗚呼、人生終に如何、生きて回天の雄図を成し、死して千歳の高名を足る、これを以て人生
    尽きたるとすべきか、予、甚だこれに迷う。」等と悟りきったような思想に随分と興味を
    持ちました。今はミッシエル・フーコーの哲学に興味があります。これは今を如何に生きるか
    の哲学です。又、開経偈・懺悔文・三歸戒文・般若心経・重誓偈・回向文を諳んじ南無阿弥陀仏
    十遍の唱を仏前に奉げ、諦観と云うべきか心のゆとりに繋がる達観した毎日を意気軒昂に過ご
    したいと毎朝晩読経を欠かしません。般若心経は宗派を問わず仏道の共通概念・無の世界を
    説いていて深淵なる無常を感じさせます。

     妹の友人でもあった人と出会い、30 歳の時(1962年、昭和37年)に、結婚しました。その妻
    とは47年間連れ添いましたが、今年2015年2月に7回忌を済ませたばかりです。この悲しみは、
    もう懲り懲りですが、億万光年の先を行く仏の姿と重なりながら未だに生き続けています。


              
      
 八千草 薫   若葉会会報・切り絵デビュウー 自己紹介   阿川佐和子


     そして、般若心経で説く無と云う思想を糧として夢が叶うと思えば自ずと生きる意欲が
    湧いてきます。これとても所詮は無であると知りつつ、食への執着を控え、だが生きんが
    為の自炊を厭わず、日々有難く粛々と自然体のままに、歩き続ける事、そして無と夢を
    追いかける日々。
     大岡 信 [折々のことば] 涯(はて)は 涯ない が強く心に残る今日この頃です。


     駒場の諸先生方が私の性格・能力・個性を観察され指導され、6年間にも及ぶ一貫教育の
    結果として私を建築の世界へと導きましたが、本当は、飛行機への関わりが夢でした。
     戦後は、暫くの間、進駐軍(GHQ)の指令で、航空機の製造はおろか、航空機に関わる
    研究や関連事業が一切禁止されていましたので将来性の無い世界でしたが、惹かれるところ
    が多くその夢を揺(ゆ)る羽田空港へは随分と足を運びました。当時は駐機場の機体に触れら
    れるところまで立ち入る事が出来、心踊らされる遊び場でした。着陸した機体をゆっくりと
    駐機場へ誘導する地上員のFOLLOW ME のサインとそのしぐさ、レシプロエンジンのケロシンの
    匂いと共に限りなく懐かしい。
     海外へ旅立つ人、送る人それを端で漠然と眺める私にとって飛行機は大きな夢とロマンを
    与えてくれる存在でした、目が悪くてはパイロットにはなれないコンプレックスを抱きながら
    航空力学教程(高坂憲三著)と云う書物に接したのもその頃です。


     
    羽田空港送迎デッキより   当時ののどかな搭乗風景   羽田空港送迎デッキより


       
  グランドレベルにて撮る   フリーハンドで描いたジェットエンジンのカットモデル3題


       
     その後も、本業の傍ら、飛行機への夢は、紙飛行機を制作して飛ばす楽しさの中に凝縮され、
    今も続いています。


    高校生の時から連綿として続く夢の一片を、ここに「挿話1」として紹介致します。


          
「挿話1」 紙飛行機    


     たかが紙飛行機、されど紙飛行機、これ程面白くこれ程奥の深い遊びは無い。

     基本的にはA4のケント紙、カッターナイフ、接着剤(セメダインC)、重り用の鉛板さえあ
    れば誰でも作る事が出来る。出来た機体は手で投げて飛ばすハンドランチ方法とゴムカタパルト
    で打ち出す方法との二種類がある。ゴムカタパルトとは大げさで、要するにゴムのパチンコと
    思えば良い。但し、この出来あがった飛行機が良く飛ぶ為には基本的に多くの条件を満たして
    いなければならない。その条件を満たし、与える事が微妙に難しい、それが奥深い所以なので
    ある。空気力学上の約束事と、複雑な条件がバランスよく保たれた機体を作るには相当な精度を
    要求される。知恵と根気が試され、程良く知的な遊びでもある。普通は着地点まで機体を回収
    しに歩く繰り返しであるが、半日も遊べば時として一万歩も歩く、一種のスポーツであると
    云っても過言ではない。

     いよいよ機体が出来上りロールアウトしても、すぐ飛ぶとは限らない。
     所謂、バージンの状態であるうちは飛ばす為にまずその特性を知らなければならないが、
    その特性に良く飛ぶ為の条件を与える為に、テスト飛行を繰り返し、繰り返し行う試行錯誤の
    繰り返しである。飛行機は何故飛ぶか空気力学的基本を充分心得た人でも、より高く、より
    長時間、より美しく飛ばす為にかなりの調整時間が必要である。

     飛ばす度、その時々の天気(風光・風速・気温・湿度)に左右され、微妙に調整をしながら
    飛ばすが、晴れていて気温の上昇が見込まれる時、専門的にはサーマル(上昇気流)が見込ま
    れる時は、フェードアウトする危険性を孕みながらも、成果が期待されるときめきの時である。
    より滞空時間を長くする為には、基本的により高く飛ばし、より大きな旋回性能を与える事、
    短時間に大きく沈下しない滑空性能を与えなくてはならない。
 
     気象条件によっては、サーマルに乗ってより高く持ち上げられ、碧空高く吸い込まれるよう
    に視界から消え去ってしまう事もある。これをフェードアウト・視界没と云う。立会仲間間の
    公認によって、一つの無形の勲章を得た喜びを実感する時でもある。だが、手放しで喜ぶわけ
    にはゆかない、これはコントロールを失った結果であり望ましい結果ではない。折角苦労して
    作った機体は、本来、飛ばせば必ず手元に戻ってくる筈のものであるからだ。手塩にかけて
    作った我が機が、碧空に吸い込まれるように、ゆっくりと大きな輪を描いて米粒のように消え
    てしまうシーンに、得も言われぬロマンを感じる。ご愁傷さまと仲間から冷やかされ、ふと我
    に返る瞬間でもある。
 
     高空でのコントロールができても、低空に下りてきた時、進路に立ちはだかる大木に突っ込
    んでしまう事がある。夏の頃等良く茂った大木に掴って、神隠しに遇ったように絶対見つか
    らないが、運よく晩秋の頃、すっかり葉が落ちた枯れ枝に、雨に打たれてよれよれになった
    愛機と、対面する事もよくある事だ。コピーを作っておけばよかったと、その時に思う。
 
     突っ込んでも、見える枝に掛かっている時は、どなたが作って用意されたか知らないが、
    当然何時もそこにあるものとして、共同使用を暗黙の内に認められるアユ釣り用の竿を拝借し
    たり、細いアルミパイプを継ぎ足して伸長出来る竿を拝借したりして、蝉取りならぬ飛行機
    取りを行うのである。たまたま仲間内の植木屋さんに登って貰って回収する事もあり、有り
    難い事である。

     釣り落した魚が大きく見えると同じように、消え失せた機体を諦めきれないでいる時、ある
    日、突然に他人が届けてくれる事がある。機体には所有者の名前を書き込んでおく約束事が
    あるのだが、届いた時は、お礼にとそれを進呈する場面もある。それはお互い様であるから。
    先輩格から頂いた時は、目から鱗が落ちるほど教えられる事があり、一歩も二歩も前へ進む
    事が出来る。こうして、ノウハウを交換する場ともなり、PCのフリーソフト的感覚で楽しめ
    るのもよいところだ。

     最近は中学生、小学生は大人並、ひょっとしてそれ以上の腕を持ち、いや、三~四才の子供
    でも飛ばす事を教えると、嬉々としてそれに夢中になる姿は誠に微笑ましい。二時間も夢中に
    なって飛ばすと、かなりの距離を走ったり歩いたりする事となる。紙飛行機はなかなか打ち
    上げた場所には帰還してくれないもので、手なずけ方が悪いと、とんでもない方へ着陸する
    事となり、回収に行く為に歩く歩数は相当なものである。歩数計は軽く万を示す。手なずける
    と、その歩数は徐々に減ってくるものだ。 「往還機ともなれば歩く歩数はゼロとなるが、
    運動にはならないので、程ほどに飛ぶようにしてある。」等と、嘯いて楽しんでいる。達人
    ともなれば、飛んだ行方を見定めてから、やおら回収に行く。行く為に絶対に走り出さない
    所が憎らしい。

     私が子供の頃、月刊誌「子供の科学」を購読するうち、昭和47年8月号に初版として「よく
    飛ぶ紙飛行機」別冊が出た。これは二宮康明氏が書かれたもので、これには切抜き紙飛行機の
    型紙が付いていた。私は、これをベースに病みつきになったと云っても過言ではない。氏は
    毎年行われる紙飛行機競技会の大御所である。又、公式競技会のカップに、日本航空史上の
    重鎮である故・木村秀正氏を仰ぎ、益々意気軒昂、趣味の世界の良きリーダーである。


          


     高度約20m、滞空時間60sec、飛行滑空距離は半径20mを三周すると仮定して377mとなる。
    時速約6.3Km、沈下率0,33m/sec 、これ程の高性能機はまずない。

    普通は滞空時間12secを目標にする。これはライト兄弟が初飛行に成功したときの滞空時間で
    あるが、それになぞらえてこの道の登竜門としているのも面白い。因みに、競技会の記録、
    並びに毎年催される競技会要綱は、インターネットで検索できる。30~40sec飛ばす事が出来る
    ようになるには、既製のキッドをもってしても、一年以上は掛かるかも知れない。既製のキッド
    とは ホワイトウイングス・シリーズで二宮氏特許による商品である。ホビーの量販店、所沢
    の航空公園・売店に行けば必ず入手可能である。


        
    
何機、制作したことか!!一機ずつ昆虫標本のように展翅版に張り付け保存すると良い


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旧・島津邸

    
4.早稲田大学 理工学部 建築学科                       


     丸尾先生による推奨もあったことから、飛行機への夢はひとまず脇に置き、早稲田大学
    理工学部建築学科に進むことになりました。建築設計の業界は、意匠(デザイン)構造、設備
    の三つの大きな分野に分かれています。幼少の頃より画を描く事が好きで、端からそれを褒め
    られたりするうちに、ついその気になったというかデザインを主たる分野として研鑽しました。
     一方、1958年(昭和33年)竣工の東京タワー建設時に於いては、鋼材を接合する高張力ボルト
    (ハイテンションボルト)の強度試験にも拘わっています。高所での焼きなましリベット打ち
    作業が不可能な為、高張力ボルトによる鋼材接合法を採用、手で締めつける為の締め付け基準
    値とその道具の開発に係るものでした。


             
      
早大・鋼構造 鶴田研究室の諸先輩と (東京タワー用鋼材引っ張り試験


          
         
東京タワーの建設開始               ハイテンションボルト


     大学生時代は、建築に係る勉学ばかりではなく、先輩から酒の飲み方も教わり青春を大いに
    謳歌しました。青春時代は、あっと言う間に去って行き、社会人として生業に就かなければ
    なりません。附属中学・高校の時から身に着けた自由を求める気質の為せる業でしょうか。
    建築業界の大会社を指向せず、さりとて大学院に進むよりはと思い当時黒川紀章等新進気鋭・
    世界的に有名な菊竹清訓建築設計事務所に入所しましたが、間もなくの夏、早大先輩三人の
    誘いで、遊んでいた早大の中南米探査隊用車両を借りての日本一周・探査紀行に参加。23日間
    と限られた日数で東京発秋田まで北上日本海側を新潟、金沢経由出雲、山口へ、下関より長崎
    に入り再び山口、広島、大阪を経て太平洋側を東京へのコース。前半分のドライバーは早大
    自動車部員、新潟で帰京。その後は私がドライバー役でトラックドライバー裸足の所業です、
    御蔭で得るところ大なる体験でした。
     因みに菊竹清訓設建築計事務所のOBよりなる菊竹学校の卒業生には筑駒1期の高田の他、9期
    の安山宣之氏、10期の富永譲氏もおられ「筑駒建築の会」の心強いメンバーであると同時に強い
    縁を感じます。


                        旧・丸ビルの装飾
     5.建築設計業界                             


     菊竹清訓建築設計事務所の菊竹所長は、黒川紀章と共に「建築は代謝する・メタボリズム
    との概念で、海上都市を提案する等カリスマ性を発揮しての運営をした方です。斬新さはい
    つも際立っていました。江戸東京博物館はその一例です。その後、短年で、菊竹設計事務所
    を退所し、道場巡り的感覚でアトリエスタイルの設計事務所を遍歴し高田設計事務所を設立
    しました。
     その後、建築学会の競技設計・テーマは「モータリゼーションに伴う大規模駐車場」の
    競技設計に前述先輩と共同設計で入賞。又、亜鉛鍍鉄板協会の競技設計に入賞するなどして
    独立したものの仕事が直ぐに入って来るわけではありません。
     独立して成功する為には各種の競技設計に挑戦し成果を上げる事しかありません、多くの
    コンペに挑戦する事は意味のある事で、成功はしませんでしたが、やりがいはありました。
    生計を立てる為にはこのコンペは大きなリスクを伴いました。今は亡き妻に素直に謝する
    のみです。

     大阪に千里ニュータウンが出来、地下鉄が千里中央駅迄延伸する頃、箕面に新設の関西女子
    美術短期大学の計画があり1968年から1971年にかけ4期に亘るキャンパス整備・設計監理の
    仕事を受注しました。
     当時ファッション界では関西に上田安子あり関東には森 英恵ありと称された時代にあって
    上田安子服飾学院がこの短大の前身です。関西以西・鹿児島に至る圏内の女子をターゲットと
    し、年毎に成長するであろう時に施設が対応できるようにという条件を満たす為に、クラスター
    (cluster)的キャンパス展開を提唱し受け入れられたものです。クラスターとはブドウの房の
    事で房の中心にあたる部分に動線を構えその実のように左右に各教育施設を展開しようという
    水平展開構想でした。これは広い敷地を箕面と云う場所に求め、成し得た事で市街地では望む
    べくもありません。
     4期の頃、オートクチュールとプレタポルテを如何に教育するかの中で、施設が如何にある
    べきかの課題を解決する為に、理事長以下関係者が連れだって、パリ、ニューヨークへ赴き、
    その都度同伴させて頂いたことは、1ドルが350円、未だに海外旅行が一般的でなかった時代に、
    先駆けて先進国の事情に触れられた事は有意義でした。 ニューヨーク、ニューヘブン、ボス
    トンの各地を視察したり、パリにあってはピエールカルダンの第一の御針子さん(熟年で紺の
    ロングドレスと金髪の良く似合う品格のある方でした)と接したり、オペラ通りに抜ける辺り、
    サントノーレにプチブティクを設計する為に1週間も滞在させて貰った事は後の仕事に如何
    ほど役立った事か。この貴重な体験も、カルダンが原宿の東郷記念館に出店したいとの意向に、
    店舗設計者として応える事が出来ず、出店を断念した事は私の語学力と力量不足を思い知らさ
    れる事となり、忸怩たる思いと呵責の念で一杯です。
     大阪通いを続けながら確認申請の折などは、朝得の飛行機で10時には大阪府庁へ、帰りは
    新幹線の最終便で日帰りする離れ技は少々きつかったが、車中で飲(や)る缶ビールのほろ酔い
    加減は最高でした。
     4期以降は、先に述べた菊竹清訓建築設計事務所の後輩で、現在建築設計界では世界的リー
    ダーである東大出身・伊東豊雄氏と同期の秀才・長谷川 紘に後継を託しました。
     この学校は一時期、関西芸術短期大学・宝塚造形芸術大学短期大学部として存続し、後に
    宝塚大学に統合されてから短期大学部は廃止されたとウイキペディアは記述していますが、
    創設者・上田安子服飾学園の池田理事長、田中事務長、崎田先生の事は何処にも記述して
    いません。

     私が独り身の独立期にあって、大学の首席卒業生・黒田氏は、竹中工務店の設計部に就職し
    ましたが、私と一脈通じる所があり、当時、彼の上司であった村上氏(芸大建築卒)と示し
    合せて退社。三菱地所の子会社としてインテリア部門の三菱メックデザインを立上げ、揃って
    役員に就任しました。そのような時に、私の状況を知る黒田氏は、私を気遣って安定するよう
    にと仕事を紹介して来ました。
     黒田氏(早大建築)の上司であった村上氏(芸大建築)の友人・信太氏(芸大油卒)が副所長
    を務めるワーダー・スタジオなるインテリアデザイン事務所が、一級建築士を求めているとの
    話でした。日常英語・英会話に接する世界に将来性を感じた事もあって、この紹介を受け入れ
    ることにしました。インテリアデザインに係る業務内容を拡充する為に一級建築士を必要と
    していたのです、1970年・35歳の時の事です。


                           美人(鉛筆画)
     6.インテリア設計業界                            


     ワーダー・スタジオは、米軍属上りでミルドレッド・ワーダーと云う女性によって設立され
    たインテリアデザイン事務所です。三菱地所丸の内・管内(所謂三菱村)には、テナントと
    して多くの米国企業のオフィスと、それをバックアップするボストン銀行、モルガン銀行、
    バンク・オブ・アメリカ、チャーターズ銀行、ケミカル銀行、アメックス等々の金融関係
    オフィスがありましたが、そのほとんどがワーダーの顧客ともなっていました。その為に、
    同業の三菱メックデザイン社とは、業務上でことごとく競合する強烈なライバル関係と
    なって行きました。
     為に、両社合併の気運がありましたが、「メック・ワーダー・デザインインターナショナル」
    か、あるいは、「ワーダー・メック・アソシアイツ」か、ワーダーが先かメックが先か、
    互いに新会社名に係るこだわりが大きく、折り合いがつかぬまま物別れに終わりました。
    結局、ワーダー・スタジオは、アトリエスタイルのインテリアデザイン事務所として強気に
    構えなおしたわけです。

     機能主義・近代建築業界では、過度な装飾性を排し内装設計に至るまでその風潮は強くあり
    ましたが、好景気時代を反映し中産階級の増大とそれ以上の階級の増大は住まいの多様化を
    生み出し、所謂インテリアと云う業界をも生み出し、インテリアコーディネーターの成長を
    促しました。そして、建築業界の内装工事分野でも、インテリアコーディネーターとして
    専門性の高い住まいのコンサルタントを必要とする機運の高まりを感じさせる時代でした。
     明治時代に欧米先進国を模して擬洋建築として我が国の遺産ともなっている様式がありま
    したが、戦後の一時期、近代建築・内装設計の上で外国人が日本を取り込んだジャポニカと
    酷評される擬似様式もありました。これは遺産に成り得る筈もありませんが、機能主義・
    近代建築の一時代を過ぎて、もはや商業主義・現代建築の今に至って大きく花開いている
    現在の、住まいのインテリアと云われるジャンルの淵源はワーダーにあると言っても過言
    ではありません。


        
   郷土玩具  切手・デザイン(案)  土佐玩具  東北玩具   屠蘇器-1    屠蘇器-2


     その後、1973年・中東戦争勃発による第一次オイルショックを境に、三菱地所管内の多く
    の外国企業が、日本を撤退していきました。その多くを顧客としていた我が社(ワーダー
    事務所)も、同時に苦境に陥りました。
     一方、光明を灯すかに見えたホテル開設受注の話も、頓挫してしまいました。この企画には
    相当な思い入れと思い出が残っています。即ち、インドネシア・マレーシア航空(後のシンガ
    ポール航空)が、開港直後の成田空港近く、千葉県市街化調整区域内にトランジットホテル
    (350室)を計画しました。各種開発許可申請を私の下で調整し、やっとの思いで申請許可が
    下りたのですが、敷地を斡旋した地上げ屋に最後まで手玉に取られ、結局、実現することが
    できませんでした。ところが、その後、私宛名義の申請許可書が一人歩きしたようで、他者が
    その土地にそのホテルを建てて現存しております。恐らく、私達を手玉に取った地上げ屋が、
    許可書を転売した結果でありましょう。当時の人=地上げ屋・官民のしがらみを仔細に描けば、
    さながら面白い小説になること請け合いです。

     さて、ホテル開発が頓挫したことで多大の負債を背負ったまま、その苦境からの脱出ができ
    ず、素人社長であるワーダー女史と副社長信太氏(共に故人)による経営は何の資産も残さず、
    10年余に亘って続いた事務所は閉鎖の憂き目に遭うところとなりました。1980年迄、建築家・
    デザイナーとして駐留軍の女将校であったワーダー女史との共闘でしたが、私の人生にとって
    大きな位置を占める、ワーダー一級建築士事務所とMildred Warder Associates, INC.について
    は、続けて、「挿話2」の中で大いに紹介致します。

     ワーダー事務所倒産時は40歳を超えていましたが、以降1982年に構えた設計事務所を1988年
    に株式会社として立ち上げました。設計・監理の逆の立場の施工の現場に入り、建築をトー
    タルで知りたいとの思いもあって、自ら厳しい施工現場監督をエンジニアとしての立場で体験
    もしました。

     1997年・筑駒開校50周年事業では、記念会館(同窓会館)設立にあたり、若葉会の御指名に
    よる問い合わせがあり、図らずも菊竹清則建築設計事務所の後輩にあたる9期の安山氏の協力
    を得て、そのチーフデザイナーも担当させていただき完成を見る事が出来ました。60周年記念
    事業に於いてロッカールームの改善・新築工事に係わり、今また70周年事業の一端として、
    同窓会館の拡張をいかなるデザインで如何に実現できるか、苦吟しているところです。
    2015年1月12日の若葉会懇親総会で発足した「筑駒建築の会」も大いに頼りとしております。
     皆様の絶大なる応援・支援も何卒よろしくお願い致します。この場をお借りしてお願い申し
    上げる次第です。


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「挿話2」ワーダー女史 と ワーダー一級建築士事務所 


     ワーダー女史は、1945年・太平洋戦争終結後、駐留軍属の一員として日本に留まった女性
    将校の一人である。役職は定かでないが、焦土と化した東京にあって、多くの進駐軍兵士は
    何かにつけて不便なカマボコ兵舎で生活していた。勝者といえども快適な住まいは、望むべく
    も無かった時代である。彼女は、そのような兵舎の生活環境を整備する為に奔走した進駐軍
    要員ではなかったかと推測する。ある時は、グアム島のカマボコ兵舎を整備する為、悪天候
    をついてB-29に乗って現地に赴いたとの事。その時、調達され同行した日本人の職人で麻布の
    経師屋・篠田さんが当時を振り返り、ワーダー女史の仕事ぶりを懐かしげに語ってくれた事を
    思い出す。

     日本も復興の機を迎え、経済の高度成長期を迎える頃、外国の銀行、商社等が続々と東京の
    一等地に進出し丸の内界隈にOFFICEを持ち麻布界隈に居住する事は、彼らにとってのSTATUS
    でもあった。丸の内では、三菱地所管内のオフィスビル内に、麻布にあっては、旧華族の邸宅
    を接収して改装を施しながら、彼らが思い描く日本の姿をその中に見出し楽しんでいた。しか
    しその改装のコンセプトの多くは似て非なる物として所謂ジャポニカと称され、我々日本人
    からは敬遠され顰蹙をかっていた。

     その中にあって、ワーダー女史は、AIA(アメリカのインテリアデザイン協会)の資格を持って
    インテリアデザイン事務所を構えた。その名はMILDRED WARDER LTD.通称ワーダー・スタジオは
    (オークラ)本館の下に現存する北川邸。彼女の起居する所でもあり、アメリカ大使館は至近
    距離にあった。 

     インテリアデザイン事務所の草分け的存在であるワーダー事務所(This is Warder studioは
    事務所のcall sign)は、多くのインテリアコーディネーターを世に送り出している。その多く
    はかつて世界的に活躍された方々、例えば大使、高官の子女であり、西欧風の生活に馴染んだ
    感覚の人達を核に、最盛期には50人を数えた。決め打ち的なデザインではなく、あくまでも
    クライアントの意向に沿い提案しコーディネートする、I suggest~と切り出す姿勢はワーダー
    流である。当時、我々が学んだデザインの基調は、アメリカ東海岸のボストンに見られる景観
    と佇まい、英国風の格調と温もりを持ち合わせた古き良きアーリーアメリカンの様式であった。

     建築的には建築基準法上の内装制限が厳しくなく、内装材には無垢のチーク、ウオールナット、
    マホガニー、檜、杉、シナ、シオジ、桐、ホウ 等々をふんだんに使える時代であった。北村
    製作所、美山木工所等の工場を抱え、クラシック家具のデザイン・製作を行っていた。

     カーテン、ベッドカバー、テキスタイル(textile)、クロス(cloth)、壁紙等は殆ど海外
    より輸入(殆どはアメリカより)、通関業務は不可欠であり国定氏担当であった。当時のクラ
    イアントは、納品までよくそれだけの時間を与えてくれたものだと思う。緊急時には航空便を
    使うにしても、普通、船便は約1カ月を要したと記憶する。日本製内装材の乏しかった頃の話
    である。

     ワーダー・スタジオが、高樹町根津美術館入口に程近い所に事務所を構える頃、先に述べた
    友人・黒田氏からこのMILDRED WARDER LTD.を紹介されたのです。当時、私はフリーの立場で、
    三菱地所の大規模プロジェクト(トルコ国・新聞用国営製紙工場を黒海沿岸・アクスに建設
    する国家プロジェクト)に参加しており、それが完了するまでの約1年間の猶予を貰って入所
    する事としました。黒田氏は竹中工務店を経て上司であった村上氏と共に、三菱地所100%子
    会社・新設インテリア部門・メック(MEC)デザイン社の役員となり、私は村上氏の友人・
    信太氏とワーダー・スタジオの役員となりました、新天地へ向けて同時スタートです。 

     ワーダー・スタジオは三菱地所の丸の内管内に多くのクライアントを持ち、彼らと直接取引
    のできる有利な立場にあった。ワーダー社長は、著名な日本人との親交も厚く、外資系銀行と
    の仲介にも長けた存在であった。そのような環境にあって三菱地所との合併話があり、三菱
    地所側から社名をメック・ワーダーにしてはと云う提案に対し、ワーダー社長はワーダー・
    メックでないと不可としこれを断った。以降、アトリエスタイルの設計事務所としての意思
    表示を固める事となった。


        
無題


     地所管内の外資系企業事務所の入居の際のインテリア工事・退出時に伴う原状復帰工事は、
    その多くをワーダー事務所が受け、メックデザイン社とはライバル関係となった。企業の役員
    向け住居のインテリアも数多く手掛け、戸建てから所謂マンションに至るまで多彩であった。
    当時は、同業者として、麻布界隈に外人向けホーマットシリーズが存在し注目の存在であった。
    福永萬八氏設計の松方マンションには、松方タネさん、ハルさんがおられ、ワーダー事務所に
    よるインテリアの仕事を通じて、親しくお付き合いが出来た事は、私にとって誠に光栄であった。

     当時、ワーダー事務所に所属した東京芸大彫刻科出身の酒井氏は、家具の写真からそのプロ
    ポーションを正確に把握して作図し、製品化する得意技でその名を馳せた。その正確な図面の
    数は数知れない。図面の示す、所謂、猫足の類もこなす木工技術はワーダー流でもあった。

     竹中工務店の住宅専門部である日本ホームズのインテリア関連業務を、金尾氏、松田妙子氏の
    下に一括受注した際には、ワーダーのデザイン力を発揮するところとなった。ルイ調の、所謂、
    猫足の家具類の多くは、酒井氏作成による精細な三面図(インチ寸法)と立体図をベースに
    してデザインされ、前述の木工所(北川、美山)、カーテン屋(西川)、篠田経師屋、に外注
    し製品化していった。

     また、Divan(肘掛・背もたれの無い寝椅子)、Love sheet、Ottoman、Sofa、Dining table、
    Chair(with-arm, without-arm)、Occasional chair、Coffee table、End table、
    Chest of drawers、Vanity、Console table、Lamp shade、Curtain、Share curtain、
    Drapery、Wall cloth、Wall paper、等々の家具をトータルデザインして提供した。

     戸建ての個人住宅にしても、マンションスタイルの住まい方にしても、欧米人が住環境を
    どのように考えているのか、所謂欧米風の住まい方を知り得た事は、私にとって貴重な体験
    となった。

     外資系銀行の日本での動きに陰りが見られるようになった頃、いささかの業務縮小を迫られた。
    家具は香港、台湾で作った方が割安だとか、外注する方が有利だとかの傾向が増してきたのも
    この頃からであった。会社を大倉と高樹町に持つ不便さと不経済さを解消する為、目黒・五反田
    に近い上大崎に移転する事とした。タイ国大使館の隣、インドネシア大使館、五反田の池田山
    ・正田家に近い所である。
     アンティークショールームを併設し、輸入業務を拡充し、インテリアと建築設計業務が軌道に
    乗り始めた頃、世界経済は第一次オイルショックに突入し、日本の米国銀行(ボストン銀行、
    ケミカル銀行、チャーターズ銀行、バンク オブ アメリカ、ユニオン銀行等々)、は香港、東南
    アジア方面へと拠点を移し始めた。ワーダーはクライアントの大半を失いかけていたのである。


     この頃のある朝突然、黒塗りのステーションワゴンに乗りSPに警護されたキッシンジャー・
    アメリカ大統領補佐官が五反田事務所を訪れ、007まがいの行動で電光石火、ワーダー女史と
    会見。このわずか30分位の出来事を知る人々はそう多くは無いが、一説によると我が社のショー
    ウインドウのコリアンチェスト(所謂、朝鮮箪笥)に惹かれて、見に来たとか買いに来たとか
    定かではないが、その日の報道では補佐官は外交で日本経由韓国へ向かったとあった。

     AIA会員 Mildred Warder Associates, INC. = 一級建築士事務所ワーダー設計事務所と
    組織を改めたこの頃、成田国際空港周辺ではホテル建設が盛んであった。当時のインドネシア・
    マレーシア航空を母体とするシンガポール航空の成田乗り入れに関し、東京に於ける代表者
    チャン・ワイ・ナム氏の訪問を受け、我が社が、シンガポール航空のトランジットホテルを
    成田に計画する事となった。

     全くこの地にコネの無い我々は、まず適切な計画地(敷地)を足で探す事から始めなければ
    ならなかった。市街化調整区域に当たりを付け、地主、成田市、千葉県庁と折衝を重ねた上で、
    0.8ヘクタール、300室のトランジットホテルの開発許可申請を行う事となった。協力方々の多大
    な努力と出費を重ね、足掛け3年の歳月を重ね、条件付きながらもようやく認可されたのである。
     その条件とは、メインの道路に接続する100メートル区間の道路の一部幅員6メートル部分を、
    幅員9メートルに拡幅する事であった。拡幅する為の幅員3メートル分買い上げ条件を巡って、
    地上げ屋に計画の主導権を握られる結果となり、計画は頓挫したままとなった。業を煮やした
    シンガポール航空は、諸費用の大半を我が社に未払いのまま計画を中止した。この結果、ワー
    ダー事務所は倒産へと導かれてしまったのである。

     ところが、許認可は中に浮いた状態となったものの、内容は生きていた。ワーダー一級建築
    士事務所・高田光雄名義の許可証は、一人歩きして、後日売買され、ほぼ類似の内容で建設さ
    れたホテルが、今も現存しているのである。したたかな地上げ屋の商魂と卑劣さに負けたこと
    に、内心忸怩たる思いを今も禁じ得ない。

     さて、所謂、第2次オイルショックを経て、心機一転、高樹町の首都高ランプ目前にある
    富士フイルム本社反対側の第28森ビル6階に、本社を移転した。日本ホームズは、木造戸建て
    シリーズの順調な展開に機を得て、同時にRC 系マンション事業を展開する為に、ワーダー
    事務所にも参画の要請があった。日本ホームズの顧客であり、銀座の貸しビル業者である
    下村氏の力を得て、南麻布、元麻布、青山にマンションを展開していった。所謂、億ションの
    走りの頃である。
     一方、時あたかも美濃部都政の日照権施行の初年にあたろうか、建築確認申請時には、近隣
    に対する日照権調整を強いられた。真北の測定(予め、東京天文台に南中時刻を問合せして
    おいて、当日、その時刻に於ける影と敷地境界線とのなす角度を平板上に落す手法)を、港区
    役所の久保田技師指導の下で行った時の事を懐かしく思い出す。


                                
                                 ケネディ駐日大使

    
最後に、もう一度、ワーダー女史(社長)について語ることとしたい。       


     倒産の憂き目となって、ワーダー事務所を閉鎖する時、ワーダー社長は、退職金替わりにと
    ワーダー事務所従業員と全ての家族をアメリカンクラブに招待し、別れの会を催した。米国に
    帰国後、彼女の故郷ダラスの養護老人ホームで生涯を終えたと聞く。
    日本語を解さず、解さなくても過せる日本での日常生活に甘んじ、マリリンモンローの金髪は
    彼女の金髪そっくりだと云わせる気位の高い米国美人女将校であった。この精一杯の御世辞に
    冥土の彼女は何を想っているだろう? 多くの男たちを手玉にとり、一世を極めた傍若無人ぶり
    はあっぱれ、それもひとつの人生だ。
     因みに、松方タネ、ライシャワー、キッシンジャー、各位は、ワーダー女史と親交が深く交友
    ぶりを目の当たりにしている。



        

        切り絵         切り絵        切り絵   切り絵(マリリン·モンロー)


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     7.皆様へのメッセージ(その1) 絵画の個展 

     若かりし頃、鉄道模型、航空機に夢中になっただけではありません。一言で言えば、デザイン
    の世界に集約されるでしょうが、絵画の領域にも大きな関心を抱き、自ら絵筆を取って、何枚も
    何枚も、主に水彩画を描き続けてきました。これらの絵を鑑賞して貰うこと、即ち、高田の
    履歴紹介そのものでもあります。上手い下手は、本質ではありません。
     絵を通して、挿絵を通して、心を訴えたい。夢を訴えたい。
     そんな心境を是非汲み取っていただき、ご鑑賞いただければ望外の幸せです。


       
   <画像をクリックすれば、拡大画像が別画面で開きます。>


         
  
    山本有三記念館の紅葉     清泉女子大学 旧・島津侯爵邸   王子・音無橋


        
        お台場にて・その1        銀座にて    井の頭公園・七井通りにて


        
       
 ベルギーの家         ほおづき市    浅草・浅草寺の祭 金龍の舞


           
   
 浅草・浅草寺の祭り   金龍の 雌・雄   阿佐ヶ谷の商店街   杉並の長屋門


          
    
   銀座4丁目にて       高円寺のドーナツ屋さん     月島の舟溜まり


        
      
新宿駅南口(定点観測) 夜景     新宿駅南口(定点観測) 昼景    銀座1丁目にて


          
         東京駅と観光バス               仏


           
       
お台場にて・その2   サクレクール    鎌倉・小町通り  小町通り入る


            
     広尾・有栖川公園         上野・岩崎邸       ベルギーの街角にて


         
 
      ベルギーの街角にて    ベルギーのトラム・ミュウジアム  軽井沢の教会


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     軽井沢の教会         軽井沢のホテル       葛飾・柴又公園


           
       
 創作      エッフェル塔   フランスの街角     上野の歯医者さん


          
     御茶ノ水・順天堂     目白の自由学園・明日館(フランクロイド・ライト設計)


           
      築地寿司屋横丁   小平・玉川上水     広尾・有栖川公園   音羽の鼠坂


      
             築地魚河岸を望む             浜離宮・汐入庭園


             
               京島にて           月島・もんじゃ焼き


           
     綿の花・その1    綿の花・その2     小判草 (一輪挿し花瓶は小生作)


         
         雀の踊り              夢の島公園の大水槽にて


                  
 
              ムクドリ        クリスタルグラス


           
      多摩川河口・羽田の漁師町にて       コンプレッサー   雑司ヶ谷・鬼子母神


          
     慶應義塾・演説館         荒川上流・豊島橋     東京女子大・ステンドグラス


         
    東京女子大・チャペル     大隈講堂正面         妻籠・縦格子


       
        
旧・芸大奏楽堂      日本女子大・成瀬講堂   小金井・江戸建物園 湯屋


        
        
成瀬講堂・原画     川崎民家園白川郷民家・格子    室生寺にて


        
 
   駒場のケルネル田圃        隅田川・清洲橋            鮭


        
          鰈の干物        国東半島にて       国東半島にて


        
        奈良の佛(十一面観音)       国東半島にて(起立)    国東半島にて


          
     国東半島にて     国東の野仏達      信楽の狸     雑司ヶ谷鬼子母神


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      東大寺・仁王像     おかめ     ひょっとこ     残った・残った


        
      川越の蔵          かんじきとランプ      潮溜まりにて


             
       
横須賀の一級建築士       宮城まり子       モンローのつもり


        
      金髪の美女            闘志燃ゆ      東大野球部合宿所のおばちゃん


             
                 
日野原先生         清水 崑・私を描く 


     8.皆様へのメッセージ(その2)「時を紡ぎ見果てぬ夢」


     1期生であるが故に、すべての筑駒同窓生は後輩にあたります。インタビュー時に「後輩に
    語りたいことは何ですか?」と問われました。とっさに浮かんだ言葉は、「夢かな」の一言。
    共に夢を語ること、共に夢を揺(ゆ)る、ことだろうか。

    達成感を我なりに感じながら人生を卒業したいが、果たして、できるだろうか?
    自分の為してきたことが、果たして、人の為になっていただろうか?
    人に共感し、人と互いを認め合って、人と渾然一体となって、何かを掴んでこられたで
    あろうか?
    果たして、何をこの世に残しただろうか?
    我欲も勿論絡みます。人からの評価も勿論気になります。
    しかし、達成しても、成し遂げても、評価されても、いつまでも次の高い次元の夢が待って
    います。
    いつも夢は中途半端で未完成であり、欲張りであり、無責任であるかも知れません。
    果たし得ないのが夢ですから。
    皆さん、私の所業の不足分を私の夢に免じてどうぞ許して下さい、お願いします。

    花吹雪夜半の嵐に夢半ば  虚空僧


                    筑波大学附属駒場中高等学校第1期生  高田 光雄



                                            以上
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