会員・各期情報>いきいき卒業生

  私の履歴書:
      12期 田付貞洋さん:  『想像力と二化螟蛾』         クリック   『ヒアリについて』 クリック  
      11期 松平定知さん:  『その時、人生が動いた』       クリック  
      1期  高田光雄さん:  『時を紡ぎ見果てぬ夢』        クリック 
      3期  膳場 昭さん:  予告編  クリック       本編  クリック 
 
     
  戦後70年記念特集: 戦争前後の状況について1期の3名に若手幹事がインタビューを行い、1名よりご寄稿いただきました。
     
       1期 田村茂さん、横溝豊さん、村野嘉孝さんインタビュー クリック
       1期 石川靖児さん寄稿 「戦中・戦後の思い出」 クリック
     
     
  音楽家特集:  若葉会会員は様々な分野でご活躍中です。その中からこの度音楽家の方々をご紹介する特集を組みました。これからも鋭意内容を充実させてまいりますのでご期待下さい。
     
     31期  後藤國彦さん    クリック        49期  森下 唯さん  クリック  
      19期  西林万寿夫さん  クリック       17期  渡邊順生さん  クリック  
    24期  内藤佳有さん   クリック    
 
   
 
     
  グルメ特集:  若葉会会員の経営するお店を紹介します。
     

  10期 八木  廣さん 幡ヶ谷「蒸し八」     クリック

  12期 土屋了介さん 有楽町「にっぽんの・・・」クリック

  13期 立石正道さん 新宿老舗酒場「ユヤ」 クリック

  15期 萩原哲雄さん 焼肉店 新橋「徳壽」   クリック

    19期 野川喜央さん 日本橋「藪伊豆総本店」クリック  

            その他にご存知のお店がありましたら若葉会事務局にご連絡下さい
 
 
  目次: 
      いきいき卒業生:30期 浅川正之さん「量子力学と見果てぬ夢」
      いきいき卒業生:1期 高田光雄さん特別寄稿「さらばジャイアン」 
      いきいき卒業生:25期 林 秀毅さん「在校生に英語による欧州講演会を毎年開催」 
      いきいき卒業生:47期 林 雄輝さん「若葉会フライト」 
      いきいき卒業生:13期 柴田治呂さん「DNAトランプ」 
      いきいき卒業生:32期 阪本成一さん「はやぶさプロジェクトにかかわって」
      いきいき卒業生:15期 岡山 博さん「放射線被曝から子どもと住民を守る」
      いきいき卒業生:30期 進藤義夫さん「震災地炊き出しイベント参加報告
      いきいき卒業生:32期 阪本成一さん「国立天文台野辺山の特別公開2011・特別講演会」 
      いきいき卒業生: 3期 戀塚 弘さん「第37回個展」 
      いきいき卒業生:15期 杉森 覚さん「10回目の駿府マラソン」


  

 
いきいき卒業生:30期 浅川 正之さん


 『量子力学と見果てぬ夢』

     

唐突ですが最初の青っぽい線がたくさん引かれている写真を見てください。この図を引用して、「ビッグバン宇宙の再現」と書いている本もあります。宇宙の最初は数億度、数兆度、あるいはもっと熱かったはずです。地上で核融合が実用化されていないのに、そんな状態を作ることはできるのでしょうか。

高校時代、最初私は化学少年でした。化学の実験の時に指示された反応だけで満足せず指示されていない反応もさせたり(絶対に真似しないでください...)して、反応の世界を楽しんで いました。そんな時、化学の授業でミクロの世界を支配する量子力学について知りました。エネルギーが飛び飛びで、粒子の位置は確率的にしか知ることができず、飛び飛びのエネルギーの状態の間を必ずしも隣あわせでない状態にも飛び移れるという不思議な世界に惹き付けられました。そして、量子力学を使って化学反応を研究したいと思いました。こう書くと量子力学は摩訶不思議な非日常的なもののように思えますが、LEDもコンピューターのCPUも量子力学の原理に基づいて動作しています。

大学受験には、化学だけでなく物理も必要ということで、物理も勉強することにしました。そうしたら、今度は少ない原理から物事を理解するという物理の考え方に惹かれて、化学でなくて物理を研究したいと思うようになってしまいました。しかし、物理でも、量子力学が活躍するミクロの世界、原子の世界に夢中でした。エネルギーだけでなくて、温度も飛び飛びになるに違いないと考えて、理論を高校生なりに作っていました。

このように私は化学から物理に興味が移ったのですが、それは結果的によかったと思っています。ある街で化学の学会と物理の学会が同時期に開かれた時、バス乗り場に並んでいる人の格好で、どちらが化学の学会行きかどちらが物理の学会行きか一目で分ったそうです。つまり、片方にはスーツ姿の人が並んでいて、もう片方にはラフな格好でリュックサックを背負った人たちが並んでいたそうです。私は後者の方です。物理の学会は世界中いろいろなところで開かれるので、様々な場所を訪ねられるのも楽しみです。他の国でも、学会が世界各地で開かれるのは物理の特徴だと思われているようで、ある外国の人が世界各地に行けるのがjoy of physicistsだと言っているのを聞いたことがあります。写真は国際学会でインドに行った時、私が蛇使いの指導を受けているところです。指導料は後でしっかり取られました。

     


さて、大学に入って実は温度は飛び飛びではないと知りました。しかし、熱力学第4法則(通常、熱力学には第0から第3法則まであります)と言う、温度に上限があるかもしれないという理論があることを知りました。その上限はおよそ2兆度(太陽の中心はおよそ1500万度)という途方もない温度ですが、そのようなことが議論されているということを知って、自分も理解したいものだと思いました。

大学の3年の時に好機が訪れました。ゼミでクォーク物質について勉強できることになったのです。そこで知ったのですが、熱力学第4法則は1960年代後半から1970年代前半頃の理論で、素粒子、特に陽子や湯川秀樹によって予言された中間子よりも基本になるクォークとグルーオンという粒子についての理論(量子色力学と言います。この色は普通の色とは何の関係もありません。物理学者は素粒子に、色や、香り、はたまた味までつけてしまいます。)が1970年代半ばから急速に発展し始めていました。この理論によると、温度が約2兆度(現在の理解ではおよそ1.5兆度)を超えると我々が住んでいる世界における物質の構成単位である陽子や中間子は溶けてしまい、クォークとグルーオンという、より下層の構成単位によって作られる物質に変わると考えられました。これがクォーク物質です。ちょうど、水が沸騰すると液体から気体に変わるのと同じです。熱力学第4法則の理論は消えてしまいましたが、その代わりにこの新しい物質(現在ではクォークグルーオンプラズマと呼ばれています)の状態ができる可能性が出てきたのです。

大学院からの研究では、この新しい物質相を研究のテーマに選びました。この研究には、このような非常に高温な状態における量子力学が必要になります。2兆度というような温度を地球上でどうしたら実現できるのでしょうか。一つだけ方法があります。原子核(直径10のマイナス14乗メートルくらい)を高速で正面衝突させるのです。そうすると、一瞬ですが数兆度の温度が実現して、このクォークグルーオンプラズマという新しい物質相が実現するのです。2兆度という温度は、宇宙ができてからおよそ10のマイナス5乗秒後くらいの温度です。それより前の宇宙はクォークグルーオンプラズマでみたされていました。実は、最初の青っぽい線の写真は、この高速の原子核衝突でできた多くの粒子の軌跡です。ですから、これを「ビッグバン宇宙の再現」というのはそれほど間違っていません。この状態は、地球上で実現可能な最も高温の状態で、最も宇宙開闢の瞬間に近い状態なのです。

大学院以来、私はこの新しい物質の存在形態について研究してきた訳ですが、研究の最初期の修士論文の執筆はまさに冷や汗ものでした。大晦日になっても結果がナイ。論文は1行も書いてない。それから1か月で、この状態をひっくり返しました。苦労した代わりに予想外の結果が出てきて、ある点(専門用語では臨界点というものです)に有り難いことに私の名前が付けられることになりました。そして、30年後の現在、この点の存在を確かめようと、世界中のこの分野の実験物理学者が実験をして、解析を行っています。私が提唱したことが研究の中心課題の一つになっていることは嬉しいことですが、あの30年前の大晦日にはとても考えられなかったことです。

このクォークグルーオンプラズマという状態は、実はまだよく理解されていません。存在は確認されたと言ってよいと思いますが、その性質は予想されていたものとは全然違っていたのです。1970年代半ば以来の理論では、この状態はクォークという粒子とグルーオンという粒子がかなり自由に振る舞っている、ガスのような状態だろうと思われていました。この推論には根拠があり、2004年にノーベル物理学賞が与えられた理論に基づいていたのですが、この状態が実際に作られてみると、その性質は予想と正反対でした。つまり、クォークとグルーオンは非常に強く絡み合っていたのです。地球上で最も高温で宇宙開闢に近い物質というだけでなく、最も強く相互作用している(引っ張ったり押したりしている)物質という第二の称号も付けられることになりました。この第二の称号は、地球上で最もサラサラしている物質、と言いかえることもできます。最も強く引っ張ったり押したりしているということと最もサラサラしているということとは、おそらく逆の関係のように感じられると思います。専門家でも同じように錯覚してしまうことがあり、このことは直感的に理解しにくいのですが、とにかくこの物質は不思議なものなのです。この物質の存在の可能性が提唱されて以来40数年、私が研究を始めてからも30年ちょっと経ちましたが、まだまだ基本的なことが分っていません。幸い多くの若い学生たちがこの問題に興味を持ってくれています。基本原理と高校時代以来私を惹き付けてやまない量子力学を使って、学生たちと共にこの新しい物質の存在形態、地球上で実現できる最も宇宙開闢の瞬間に近い状態の研究をさらに進めたいと夢見ています。

  
             「大阪大学原子核理論研究室メンバー」


 2018年7月18日
大阪大学大学院理学研究科物理学専攻 教授 浅川正之


  

 

いきいき卒業生:特別寄稿『さらばジャイアン』



             
一期生・立壁和也 

    平成27年(2015年)6月18日 逝去 行年80歳 6月23日、24日
     青山葬祭場にて凡そ1000名の会葬者に見送られて旅立った。

    立壁チルドレン達のこぼれそうな涙を大きなまなこ一杯に受けて
      途切れながらも皆で上を向いて歌い切った通夜の夜。
     上を向いて歩こう」の歌声がなかなか脳裏から離れない。

     若い人々による異例の葬儀に時を感じると共に未だ脈々と
      生き続ける声優ジャイアンの底力に敬意を表する。


            2015/06/28 一期生・高田光雄


  


=ぼくはのび太に近い=

ずいぶん仕事もしたし、僕は結構満足しているのですよ。「こんな俺でもこれまでこれたんだ」ってね。今は不景気で(番組の)製作費が少なくなったから、声優界は大へんなんです。だから、面倒を見てくれた後輩たちに仕事ができたら嬉しいし、幸せになってもらいたいと思います。  (若葉会報70号掲載記事より引用)

      



声優と云う独立した業態の確立に尽力し志す人々の底辺を広げ育成し、なかんずく声と語りに人格を与え、役とかべさんが一体となって子供達・若い人達に夢を与え続けた成果は大山のぶよ氏と共に褒め讃えられるべき創作の世界だ。

森繁久彌、西田敏行、竹下景子の朗読の世界とは一線を画して、ジャイアン・のび太が描く「語りの夢の世界」が大きく膨らむような世の中が到来する事を願って旅立ったに違いない。

ずいぶん仕事もしたし、沢山酒も飲んだし俺は満足と云うが、独り身の等身大ののび太が人一倍の寂しがりやでその気持ちをうまく明るく昇華させたなと俺は思う。 合掌



 2015年6月30日 1期幹事 高田光雄


  
 

いきいき卒業生:25期 林 秀毅さん


          


『在校生に英語による欧州講演会を毎年開催しています』という内容でご寄稿いただきました。
林さまは「在校生だけでなく卒業生の方々に知って頂き、それぞれの専門分野でこのような活動が広がってほしい」とのお考えをお持ちでいらっしゃいます。

詳しい内容をご紹介させていただきます。

2014年10月6日 若葉会HP委員会

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在校生に英語による欧州講演会を毎年開催


一昨年度から筑駒の在校生を対象に、欧州の統合やユーロ危機の背景などについて母校にて講演会を実施しています。

きっかけは、一昨年の夏でした。当時私は、大学の研究所に在籍し、日本の高校生向けに、欧州統合の歩みや、ユーロ危機の原因について、講演を企画していました。

自分が高校生だった頃、世界史と英語が好きだったことを思い出し、母校の濱本副校長先生(23期)にご相談することにしました。濱本先生から校内の国際交流担当や社会科の先生方をご紹介いただき、参加希望者の募集や関心事項の事前アンケートの実施という周到な準備を経て、同年12月に初の講演会を実施することができました。


第1回の講演会は、二つの話で構成しました。先ず、当時はギリシャの財政破たんに端を発したユーロ危機が深刻だったため、私がユーロ危機の原因と現状、解決策などについて説明しました。次に当時一緒に活動していた欧州連合(EU)代表部の担当者が、第二次大戦後に始まった欧州統合の歩みや日本と欧州の関係について講演を行いました。


折から、講演の直前にEUがノーベル平和賞を受賞していました。参加者の皆さんは「ユーロ危機がこれだけ深刻化しているのに、なぜEUがノーベル賞をもらったのか?」という疑問を持ち、講演会に臨んだことと思います。この点について先ず、欧州統合は欧一つの大きな国への統合を目指すのではなく、EUと各国との協調を取ろうとしたもののそのバランスの置き方に誤りがあったため、危機が深刻化したことを説明しました。


次にこのような危機にも関わらず、戦後から続いた欧州統合により、欧州各国同士の関係が密接になり、対話のメカニズムも発展し、欧州内で二度と戦争が起きていないことが評価され、ノーベル賞を受賞したことを強調しました。


その後、約30分間にわたり、事前準備の成果からか、活発な質疑が行われました。参加者は高1と高2を中心に約30名、大学受験を直後に控えた高3生からの参加もありました。


注目すべきは、講演と質疑が全て英語で行われたことです。在校生の皆さんには、欧州の知識だけでなく、英語で外人と直接議論することの面白さと楽しさを味わって盛られたのではないかと思います。


続いて2013年も、ほぼ同様の形式で講演会を実施しました。但しユーロ危機がやや落ち着きを見せてきたこともあり、講演の順番を入れ替え、欧州統合の歴史的な発展と今日的な意義を中心にする展開にしました。参加者は一年目を上回る約40名に達しました。さらに三年目となる今年度は、担当の先生方とも相談し、中学校の上級学年を主な対象として開催する予定です。


講演会の冒頭で、私はいつも自分の在校生時代の経験をお話しています。英語の久保木先生には、当時出来て間もないLL教室で、ネイティブのような英語の発音を基礎から教えていただきました。世界史の時間には、城戸先生に指定されたハイレベルなテキストを背伸びして読みました。今振り返ってみるとこうした出会いが、欧州への関心を高め、今の自分の仕事につながっています。講演会によって在校生が世界に対する広い視野を持つと同時に、自分の将来を切り開くきっかけになればとも願っているのです。

                                  

※関連記事および当日の様子はこちらからご覧いただけます
http://www.gakko.otsuka.tsukuba.ac.jp/?p=2919


 25期 林 秀毅



  

 

いきいき卒業生:47期 林 雄輝さん

                                      

先日事務局に「若葉会フライト」と題したメールが届きました。    
大変興味深く読ませていただきましたので、若葉会会員の皆さまにも是非お知らせしたいと思い、林さまに寄稿をお願いしましたところ、快くお引き受けくださいました。

以下、ご紹介させていただきます。

2014年7月18日 若葉会HP委員会

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47期林雄輝と申します。A社で航空機の副操縦士をしております。
先日幸運にも41期の藤崎将人さんと「若葉会フライト」が実現しましたのでこの場を借りて皆様にご報告させて頂きます。


弊社のパイロットは現在約1800人おりま す。私の知る限りでは若葉会の会員が3名所属しています。今回はそのうちの2名で1機のBoeing777型式機を飛ばすことになりました。

航空機のパイロットは基本的に同時期に1種類の機種しか操縦することが出来ません。
今日はB787、明日はA320、来月はB747だ、といったことはライセンスの関係上不可能になっています。

機種が変わる際には1か月から3か月の機種移行訓練というものが必要になります。
社内の規程で最低3年間は同じ機種を操縦すること、という決まりがあります。移行訓練には時間や経費が掛かるからです。
現在弊社の運航する機材はB737、B767、B777、B787、A320と5種類あり、若葉会フライトを実現するためには

1、同じ 機材のライセンスを同時期に所持している
2、無数にある「機長⇔機長」もしくは「機長⇔副操縦士」の組み合わせの中からチーム編成になる

といった2つの偶然が重なる必要があります。自分が操縦したい飛行機を選べるのではなく、会社の機材計画の中の指示で操縦する機種が決定されるため、1番目の「同じ機種」という関門も非常に狭きものとなっています。3名の若葉会員のうち2名がB777所属、1名がB787所属です。


次にチーム編成についてですが、考えられる組み合わせは「機長⇔機長」の組み合わせと「機長⇔副操縦士」の2種類あります。「副操縦士⇔副操縦士」という組み合わせは残念ながら認められていません。そしてB777型式部だけでも700名弱のパイロットが所属しているためこの組み合わせは無数のものとなります

チーム編成も日帰りだけのパターンや2泊3日一緒に飛び続けるパターン、長距離国際線のように4日間一緒のパターンなど、日程の組み合わせでも様々なバリエーションがあります。


                             


そんな中、6月下旬に国内線の2泊3日パターンで若葉会フライトが実施されました。

チーム編成:藤崎機長(captain)、林副操縦士(co-pilot)
   1日目 東京羽田ー松山―東京羽田ー福岡(宿泊):3フライト
   2日目 福岡ー東京羽田ー沖縄(宿泊):2フライト
   3日目 沖縄ー東京羽田ー札幌ー東京羽田(帰宅):3フライト

と いう日程でした。3日間で合計8フライトを行う業務です。夏の台風や冬の大雪等の天候の悪化や機材の故障などがあると途中で中断せざるを得ない場合もあります。今回は天候や機材の調子も良く、全てのフライトを予定通り遂行することが出来ました。これもひとえに若葉会員クルーの化学反応の結果ではないかと思います。

次回の若葉会フライトは何年後、何十年後になるかわかりませんが、母体が増えればそれだけ可能性も増えます。

パイロットになる方法は色々ありますが、代表的なものは以下の4つです。

  1、各航空会社が募集している「自社養成制度」を利用する。
  2、航空大学校に入学する。
  3、私立大学の航空学科に入学 する。
  4、外国のフライトスクールでライセンスを取得し、日本のライセンスに書き換える


身体検査の基準が非常に厳しかったり、国際線の時差で体がだるくなることもありますが富士山の火口やアラスカのオーロラ、マッキンリー山などを特等席から見ることも出来ます。

  写真は3日目を無事終えた際のものです。(左:藤崎機長、右:林副操縦士)


   


もし興味がありましたら何でも聞きに来てください。

 47期 林 雄輝


  

 

いきいき卒業生:13期 柴田 治呂さん


 柴田さんは公務員時代から現在に至るまで多くのユニークな著作を世に出され、最近はDNAトランプなるものを考案して若い人達に遊びながら生物学の基本を学んでもらう活動をしておられます。
 今回はそんな柴田さんに登場していただきました。 

2014年2月28日 若葉会HP委員会

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 ―大学卒業後公務員を選ばれましたね。その動機は何だったのですか。

東大紛争の真っただ中で私の学んでいた原子力工学科は全共闘が強く、教室がロックアウトされたりしました。当時はやっていた大資本批判に感化され、一企業に働くより、世の中のために働こうと思って科学技術庁に行くことにしました。


 ―行政官の割にはいろいろな本を出版していますね。

幸い経済企画庁のシンクタンクNIRA(総合研究開発機構)に出向になり、研究できる環境になりました。科学技術について誕生から成長、発展、衰退というようなライフサイクル的見方に着目して研究し、ひとつの物の見方として、「技術革新の担い手は誰か」という本を出版しました。ある大学教授がこれはアバナシーの理論と同じだ、と高く評価してくれました。世界で名だたるアメリカの大教授と同じ考え方を全く独力で見出したことで、自分を信じて研究すれば必ず成果を出せるとの自信ができました。

NIRAの時は子供が一歳頃でしたので、どうして言葉を覚えるのかに興味を持ちました。
最初は新しい言葉を言ったときにメモっていましたが、ある時から子供といる時間のすべての発言を記録しました。何の成果が出るか展望は全くなかったですが、根気よく続けました。それをフランス語にして出版しました。無名の者の学説を認めたのはフランスならではのことでしょう。脳の知識を加味して「赤ちゃんのことば」として日本でも世に出しました。


 ―アイヌ語の本も出されたとか。

言語について自信を持ったので、次に誰でも興味があり、答の見つかっていない日本語のルーツを探ろうとしました。アイヌ語がすぐそばにあるのに無視されているのは偏見と思い、あえて挑戦しました。赤ちゃんの言葉の研究経験から日本語とアイヌ語の変換ルールを編み出すとともに日本語の最も古い万葉集や風土記の中にアイヌ語の痕跡を見つけ、「カムイから神へ」と言う本を出しました。誰も手の付けていないところを発掘すれば何か出てくるとの確信を深めました。


 ―文化論も論じておられるようですね。

日本は最近アメリカの物真似ばかりして日本の良さがどんどんつぶされていることに危惧を憶えました。アメリカでできることがなぜ日本ではできないのか、と言う素朴な疑問にきちっと答えられていません。そこをはっきりさせるのは根源となる価値観ではないかと思い、二項対立の形で示すことを思いつき、東京農工大学にいた時「もうアメリカ人になろうとするな」と言う本を著しました。人間の生き方については、アメリカ人と日本人は対極に位置するものでアメリカ人の考え方がいいわけではありません。日本人は日本の生き方でいいんだ、という自信を是非持って欲しいのです。


 ―最近は「DNAトランプ」と言う面白いものを考案したようですね。

ウイルスから動植物まですべての生物はDNAの遺伝情報によって作られていて、それがたった4つの塩基のみによって書かれているのには驚嘆します。又、生物を構成するたんぱく質は20のアミノ酸だけから構成されている、と言うのも驚くべきことです。無限の多様性がある生物も元はと言えば物質のような根源的なアトムから形作られることに感銘を受けるとともにその単純さは衝撃的です。4つと20という二つの数字に感動しているうちにハットひらめきました。4つの塩基をトランプの4つのスーツに、20のアミノ酸をランク付けして20枚のカードにすればトランプになるではないか。DNAトランプの誕生です。


 ―どうしてこのようなものを考えだされたのですか。

日本はモノづくりをして輸出をしていかなければ繁栄できません。科学技術を大切にしなければならないのに理科離れが深刻です。DNAと言う名は知っていても何のことかわからないと言うのが実情でしょう。DNA上の3つの塩基の並び、コドンが一つのアミノ酸を決める、と言う最も基本的な自然法則、セントラルドグマもほとんど知られていません。iPS細胞、STAP細胞など生物学に革命が起きていることに興奮しますし,これからの医療の進歩が大いに期待されます。その源はDNAでよくわからないではすまされないと思います。何とか国民が先端科学、技術に親しみを持ってほしいと思っていました。トランプならば手に持っているうちにDNAやアミノ酸のことを自然と覚えます。遊びながらであれば誰でも抵抗なく重要な科学技術を学ぶことができるのではないかと思ったのです。


 ―どんなカードなのですか。

特殊なカードでなく普通のトランプとして遊べるように、マークは4つの塩基、アデニングアニン、シトシン、チミンの頭文字が容易に想起されるようにしつつ、既存のトランプとできるだけ同じようなデザインに工夫しました。数字面にはアミノ酸の名前と分子模型を載せ、そのコドンも合わせ表記しました。20枚と枚数が多いので、楽しく遊べるようにチェスにならってナイトとビショップの2枚の絵札を追加しました。共通面はDNAの2重らせんをきれいに図案化し、DNAと同じように重要ですがあまり知られていないRNAをジョーカーとして図示しました。



   
               
柴田さんが考案された「DNAトランプ」


 ―どのような遊び方ができますか。

婆抜きをはじめ神経衰弱、ページワン、ダウト、大貧民、スピードなどは枚数が多くても普通のトランプと同じルールで楽しく遊べます。7並べは10か11を最初に出せばいいし51やナポレオンなども多少ルールを変えるだけで楽しく遊べます。さらにこのカード特有の遊び方としてセントラルドグマそのものをカードに当てはめた「コドン合わせ」と言うゲームも考えました。遊びながら生物学の基本を学べるので教育の現場でも利用してもら
    いたいと期待しています。小学校から大学生までの学生をはじめたくさんの方々に使って
    いただき、いろいろな遊び方を考え出してほしいと思っています。


 ―どこでDNAトランプを入手できますか。

現在勤めている(公財)日本発明振興協会は昨年60周年を迎え、その記念グッズとして制作しましたので、ホームページから購入できます。お台場の科学未来館のミュージアムショップなどでも買えますし、これから全国の大きな科学館に展開しようとしています。科学の甲子園の地方代表には参加賞として提供していますので、教育界で活用するのであれば無償で提供することも考えています。「1家に1箱DNAトランプ」のように、大人も子供も遊びながらDNAを学び、国民の科学マインドの向上に役立ってもらえれば本望です。


DNAトランプの入手先はこちら → http://www.jsai.org/dna.htm




柴田さんの科学技術への真摯な取り組み、そして若い人達の育成への情熱がひしひしと伝わってきました。
今後も精力的なご活躍を期待したいと思います。本日はありがとうございました。

13期 国嶋 矩彦


  

 
 
いきいき卒業生:32期 阪本 成一さん

阪本成一氏インタビュー '12.4.27 17:30〜19:00若葉会事務局にて


 2010年6月に7年間の宇宙の旅を終えて帰還した小惑星探査機(科学衛星)「はやぶさ」の偉業はその後4本の映画化に象徴されるように日本人の心に大きな感動を与えた。32期の阪本成一さんは、JAXAの宇宙科学研究所教授であり宇宙科学広報・普及主幹として「はやぶさ」プロジェクトに深くかかわり、3本の映画の監修にも携ってこられた時の人である。
 若葉会報68号にも投稿いただいていることはご承知のとおりであるが、今回HP委員会として阪本さんに直接インタビューをお願いし、出張帰りのお忙しい中、示唆に富むお話をいただいたので紹介する。



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−JAXAでの仕事は
私の本来の専門は電波天文学で、野辺山の国立天文台を経てJAXAに来ました。小泉内閣の時代に日米欧協同の国際大型電波望遠鏡計画(ALMA)に参画し、国際調整、国民の理解を得るための広報活動、現地チリとの交渉などに奔走して緊縮財政の中ほとんど唯一予算取りに成功しました。この頃から外とのインターフェースが始まり、現在では広報、普及、教育、渉外等を担当しています。自らが研究者であることが広報活動にも大いに役立っていると思っています。


 −講演や出張も多いようですね
講演はJAXAの地元の相模原を中心に年100回以上におよんでいます。今回の出張は近々打ち上げられるロケットについて近県の漁業組合と出漁見合わせなどの協議のためです。その際、ロケット打ち上げの意義も説明するのですが、以前は眠そうに聞いておられたのが、最近は海域の話だけでなく、プロジェクトの中身についての質問も出るようになりました。粘り強く説明することの大切さを実感している次第です。


 −3月封切りの「おかえり、はやぶさ」の評判はいかがですか
残念ながらお客の入りはよくないようですね。でも見た人の評判はいいようです。子供をターゲットにクレヨンしんちゃんやドラえもんを宇宙で暴れさせたり、アニメとコラボできれば国際的にもアピールできるのではと思っています。今回監修に当たってお願いしたことは、過去に失敗した部分にも光をあて、その積み重ねが今回の帰還に繋がったことを強調することです。先輩の努力があって今がある。開き直るつもりはありませんが、失敗にも意味があるということです。


 −今回成功の意味はさらに大きい
はい、実は絶望の底から這いあがって最後は楽勝ムードと見られていた帰還も、実際には最後まで非常に厳しい状況でした。川口プロジェクトマネージャ以下の最後まで沈着な対応が成功に繋がったわけですが、この「はやぶさ」のおかげで社会の我々を見る目が変わったと思います。今のところ当初の成果が出ていない金星探査機についても、今までなら大いに叩かれているところですが、今回はそうはなっていない。諦めるのは楽だが、あいつらは何か粘ってくれるのではないかという期待をひしひしと感じます。我々は研究者生命を賭してこうした期待に応えていきたいと思っています。


 そもそもこの道を選んだきっかけは
中学3年の時だったと思いますが、授業で熊野先生がTV番組を紹介してくれました。宇宙をあつかう「コスモス」という番組です。これをきっかけに天文学科を目指そうという気になったように記憶しています。


 −では駒場時代から着々と準備を
いや、自由な環境の中で遊んでいましたね(笑)。理科系のクラブでは電波研にひやかし程度に属していました。剣道部やサッカー部を転々とし、文化祭では自由映画作成のグループで映画を作ったりしました。同期は毎年大晦日に渋谷の飲み屋に集まっています。駒場のいいところはライバルを捜すには非常に恵まれた環境にあることです。私もA君というライバルがいて二人とも超優秀ではなく一浪しましたが身近なライバルとして駒場生活を有意義に過ごす原動力となりました。息子にもライバルを作ることを勧めています。


 −大学時代こそ勉強に努めた
それが、ボート一筋でした。当時東大生産研究所の教授で駒場の先輩(6期)でもある村井教授の誘いにうまく乗ってしまいました。いわく、「ボート部は研鑽の場を提供する。その場は一流の場でなければならない。大学4年間でしか出来ないことに挑戦すべきだ。ちなみに自分はローマオリンピックのボート代表であった。」これはやるしかないと思いました。長距離走に弱い自分には無理だろうと不安でしたが結局最後までやり抜きました。


 −どのような工夫を
圧倒的な練習です。休む時間をとる工夫をし始めるとダメになり、合理的という言葉が出た瞬間にダメになります。これは研究にも言えることで、合理性を追求するだけではダメで、悩んだあげくふと横になった時にアイデアが出ることが多いものです。東大ボートがなぜ強いかというと、単純な運動や辛い練習など運動神経に無関係な要素がボート競技にはあり、この面で東大生に適性があるのではないかと思います。


 −宇宙開発においての日本の実力は
宇宙開発ではやはりアメリカが圧倒的で有人飛行のロシアとで双璧をなしています。おもしろいことに、この両国の考え方が違っているんです。アメリカは常に新しい技術に挑戦し、新技術を取り入れようとします。しかしロシアには動いているシステムは変えないという思想があるようです。古川さんのソユーズもガガーリン時代からほとんど変わっていません。使えるものは使って多少の手直しをするというこのロシアの思想にはアメリカも一目置いているようです。一方、日本はヨーロッパと並んでその次の位置で追いかけている状況です。新興国としては中国、インドがあります。中国は圧倒的な予算で臨んでおり、詳細はわかりませんが、有人飛行では日本の上を行っています。探査については日本はアメリカの次にあると言っていいでしょう。


 −そのような状況で日本が宇宙に挑戦する意味は
私は文化というものは自ら担ってこそ意味があると思っています。他国からの移入にたよるものではなく、後追いでは国や民族の存在意義がありません。予算がないなりにゲリラ戦で成果を出せます。マーケティングで言えばスーパーニッチ戦略ですね。現に、日本のお家芸としてX線天文衛星、太陽観測、宇宙プラズマ等の領域があり、NASAも我々の衛星を使っています。


 −予算があればもっと成果があがる
たしかにJAXAの予算はNASAの十分の一、二十分の一にしか過ぎないし、人数も少ないです。日本の特徴は軍事と切り離しているところにあり、他国とは事情が違います。予算はもう少しほしいのは本音ですが、あまりたくさんあるとロクなことがないのも事実です。3倍も4倍もあると自分でものを作らなくなり、工夫をしなくなります。糸川博士の「カネがないなら知恵を出せ」を引き継いで頑張っているのです。したがって広報も手作り、外注しないで本人が出て行きます。広報担当教授がいること自体が異常かも知れませんね。


 −JAXAの今後の計画は
今見えているものとしては、「はやぶさ」後継機(「はやぶさ2」)、X線天文衛星のアストロH、ヨーロッパと共同開発の水星探査衛星等が2014年に集中し、その前に2013年に小型科学衛星のSPRINT-Aがあります。最近は限られた宇宙開発予算というパイに利用希望者が増えて競争が厳しくなっています。これまでにやれなかったことをやると大がかりになり、15年や20年に一度のプロジェクトだけでは研究者が大量発生し大量絶滅することになってしまいます。かと言って二番煎じもいやだということで、戦略として大型の案件は国際協力を、小型の案件はゲリラ戦で切り開くようにしています。


 −開発の手法に変化は
最近ではすべてオーダーメードではなく、セミオーダーメイドが多くなりました。例えば、主要部分は個別開発ですが、電力、通信、姿勢制御など共通化できるところはパッケージ化が進んでいます。早さ、安さ、高信頼性を追求し、浮いたリソースを本来のミッション部分につぎ込むのです。インターフェース標準化の国際機構もあります。OSは複数採用されており、その1つにトロンもあります。


 −システムエンジニアリングの究極に宇宙開発がある
それが、JAXAのなかでも宇宙研はやや特異で、現場は極めて属人的なんです。システムエンジニアリングのめざすところはインターフェイスをしっかりと規定しドキュメント化していくことによって人の能力に左右されない開発をしようということにあると思います。しかし宇宙研では人から人へつないでいく部分が大きいのです。ドキュメントだけでは必ず漏れが出る。失敗のもとが随所に現れるわけです。そんなときにスーパバイザのような人が問題を判断して適格な指示を出せばリカバリが早い。これが強みです。サブシステムの責任者はすべてを理解しており、立場を超えてブレーンストーミングができるのです。10人で問題解決ができ方針が出せるのはすべて外部依存の体質ではとても無理でしょう。


 −そんな中でどのような課題を感じている
宇宙開発というものはすぐに国民生活に役立つものではないということを受け入れてもらうことの難しさですね。ヨーロッパには物理学は自分達でつくったという自負がありますが、日本人にはそれがなく、これで何ぼになるという話になる。アメリカには軍事応用という大義名分もあるでしょうが日本にはない。サイエンティストの位置づけも含めて地道な努力が必要だと思っています。


 −最近の若い研究者への感想は
理科離れはたしかに実感しています。ただ、小学生にはそのようなことはないと思います。むしろ、先生や親たちが理科に対する苦手意識を持っているようです。これではまずいのでスーパーサイエンティストの育成や理科の先生の増強をはかる必要があるでしょう。自分は最近の若い者はと言うつもりはありません。ただ、JAXAでも新人でプロジェクトマネージャをやりたいという希望を述べる人が増えました。まずは自分の技術をみがき、世の中に通用する得意分野を確立することが先決だと思っているのでちょっと心配です。最近就職の相談を受けたときにも、宇宙は一人で出来るものではない、様々な人々の協力が必要であり自分はこれをやりましたというものを持ってほしい、とアドバイスしました。私の場合はボートであったわけで、専門の話でなくてもいいと思います。ただ、直前の付け焼刃的なボランティアはいけませんね。


 −駒場生にアドバイスを
何と言っても駒場は自由な環境にあると思います。時間もあるのだからこの間にどこかの分野にフォーカスすることが重要だと思います。私の息子の学校では2兎を追えと言っているようですが、学校の勉強以外でもこれというものを見つけてほしいと思います。これは私自身の反省でもあります。


 −最後に若葉会に一言
筑駒(教駒)は母校愛が希薄なんじゃないかと思うことがあります。他の伝統校と比べて同窓生の結束が薄いような気がしますね。同じ職場においても進んで駒場出身と素直に言える雰囲気があまりないようなので、これが素直に言えるようになるといいですね。


 −ご指摘の課題を真摯に受け止め、職場・業界・地域などにおけるミニ若葉会のような同窓生の結束を促す施策をさらに進めていきたいと思います。今日はお忙しい中、示唆に富んだお話をどうもありがとうございました。



平成24年6月20日 若葉会HP委員会



  

 

いきいき卒業生:15期 岡山 博さん


昨年3月の大震災直後、若葉会会長に宛てたメールの内容を「震災の現場から」というタイトルで若葉会のホームページに掲載いたしました。今回、岡山さんより若葉会にご連絡をいただきました。岡山さんのブログをご紹介します。


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≪放射線被曝から子どもと住民を守る≫

 15期岡山博です。仙台赤十字病院呼吸器内科で働いています。
 大震災直後の3月14日に、若葉会、藤村元さんからお見舞いメールを頂き、本当にうれしかったです。
 藤村さんと、若葉会皆様に、改めて感謝します。      

 放射能や、被曝の危険性を話題にするのは、殆どタブーで発言することは大変でした。
 基本的にそれは今も続いています。

 自由な発言ができない中で、8月と9月に小論を書きました。

 「福島原発事故後おきていること」は仙台市 医師会報に書いたものです。この時点では、覚悟を決めて放射能を話題に書くだけで相当の覚悟が必要でした。まだ事故後の経過を書くだけで、意見発言はできませんでした。

 「放射能被曝を避けるために・野焼き」は小さな子どもを持つ母親などが、悩みを話せる相手を求めあって作った「放射線被曝から子どもを守る会 いわて」の方たちの要請に応えて書いたものです。

 自由な発言できない状況の中で、ようやくブログを12月に開きました。
 この2つの小論や、「被曝をどう避けるか」(原発事故と被爆問題に関するまとめと私の意見
 「東北電力 マカブゥさんへ」;「電力会社や専門家は何をすべきだったか」についての、私と東北電力社員さんとの対話などを載せました。ご覧 いただけると幸いです。

≪岡山医師のブログ≫→ blog

                               


  

 

いきいき卒業生:30期 進藤義夫さん


 障害のある方々への就労援助や作業の仲介、情報提供に関する事業を行っておられる特定非営利活動法人 障害者支援情報センター理事長 進藤義夫さんに震災地支援の活動についてお話頂きました。

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 5月4日ライオンズクラブ福島県新地町炊き出しイベント参加報告(30期進藤義夫)


 東日本大震災の被害は各地で甚大ですが、2011年5月4日に福島県相馬郡新地町で行われた炊き出しイベントに参加してまいりました。全世界的社会奉仕団体であるライオンズクラブがネット上で仲間に呼びかけ、5月4日5日と2日間、福島県相馬郡新地町と岩手県大槌町の2か所においてそれぞれ新地ライオンズクラブ、大槌ライオンズクラブを主催として実施したものであり、私は第1日目だけ参加致しました。

 実は私も4年前から東京世田谷ライオンズクラブに入会して青少年育成事業や障害者支援事業などの活動を行っており、この当時はクラブの幹事でした。前夜の午後10時に世田谷区三軒茶屋に7名で集合し、出発しました。夜の東北自動車道をひた走り、沿岸は通れませんので仙台経由で午前4時に現地の新地町役場に着きました。

 次第に明るくなり、津波の被害がわかってきました。海のほうに歩いていきますと、ある一線を境に建物が突然何もなくなる感じなのです。かろうじて残っている家は1階部分が破壊されていますし線路が畑の中に落ちていたり、橋脚だけあって橋がなかったり、また、道路と思ったところは実は元は常磐線が走っていたところでした。役場の隣の建物は避難所となっていて、皆さんが仮設トイレで用を足したり、顔を洗ったり歯を磨いたりしていました。


 


 7時15分に新地ライオンズクラブメンバーでもある加藤憲郎町長のアナウンスがありました。なんと地震の翌日からアナウンスを毎日続けていらっしゃるのだそうです。この日のイベントについても前日放送で告知されたそうです。

 朝が明けるにつれ、次第にライオンズメンバーが全国から到着します。それを待っている間、庁舎の裏ではゲームコーナーで使う水風船をみんなで作りました。

 そして、いよいよ打ち合わせに続いて駐車場の広場に8張りのテントが張られ、明石・岐阜・千葉などからやってきたトラックから炊き出し用の大量の食材や大鍋、コンロなどを荷下ろししました。
 またたく間に本部テント、チョコレートや牛乳の配布テント、その他食べ物類のテントが作られ、
 テントの外には子供たちが遊べるようにとスーパーボールすくい・ヨーヨー釣りの各プール、水風船ダーツのパネルが設置されました。これらのプールやパネルも岐阜のライオンズメンバーの手作りです。

 11時からイベントが始まり、多くの方が来場されました。この日のメニューは、ハヤシライス鳥のから揚げ・たこ焼き・綿菓子など祭りの定番メニューのほか明石焼き・佐用町名物ホルモン・焼うどん・たい焼き・炭火焼さんま・炭火焼カレイなどでした。特に魚は久しぶりといった方が多く大行列が出来ていました。また、チョコレート・牛乳・駄菓子や風船の配布、ゲームコーナーにも行列が出来ていたほか、自衛隊の皆さんもお祭りに協力して下さいました。


   

 


 私はスーパーボールすくい屋さんを割り当てられ、お祭りらしくピカチュウの着ぐるみを着てしきりましたが、新地町の子供達はとても明るい笑顔で笑い、スーパーボールすくいをしてくれました。大きいボールは3つまで、小さいボールは7つまで持って帰れる、たくさんとった人は「最高記録」として貼り出す、というシンプルなルールでしたが、何度も挑戦に来る子供もいました。新地町のボランティア2名の方とフル回転で行い、1時半ごろまではまったく立ち上がれないくらいの盛況で目が回るほどの忙しさでした。結局300名強の子供たちがスーパーボールすくいを行い、最高記録はたかひろ君(11歳)の43個でした。


       


 3時ころから全体でテキパキと片づけを行い、全体で記念写真を撮って4時に解散となりました。大槌町に行く皆さんに別れを告げ、東京からきた我々は帰途につきました。帰りは仙台周辺からいきなり大渋滞で、東北道もずっと断続的に渋滞しており、常磐道経由で東京に帰りついたのは日付が変わるころでした。

 大変疲れましたが、新地町の方が芝生に座ってゆっくり昼食をとりながら「子供たちは放射能が怖くてしばらく外に出ていなかった。こんなに子供がいたのね」「町長の呼びかけもあったから町民のほとんどが来ているんじゃないかしら」と話して下さったのが大変印象的でした。

 大槌町に行かれた皆さんは翌日また炊き出しを行い、息つく間もない忙しさだったそうです。頭が下がります。

 この震災は被災地も広く、息の長い支援が必要です。ほかにも液状化被害の激しかった茨城県潮来市にポリタンクを運んだり消毒薬を小中学校に配布したりしましたが、7月からは1年任期でクラブ会長をしておりまして、現在は津波の被害が甚大だった宮城県南三陸町にちょくちょくと足を運んでいます。今後も長く被災地支援を行っていこうと思っています。





 

いきいき卒業生:32期 阪本成一さん

    国立天文台野辺山の特別公開2011(8月20日)のお知らせ
  ―卒業生のかたがたになじみの深い野辺山にある国立天文台の特別公開があります―

 特別講演会は、若葉会32期の阪本成一さん(宇宙航空研究開発機構(JAXA) 宇宙科学研究所教授 / 宇宙科学広報・普及主幹)が担当されます。
 夏休みの1日を、なつかしい野辺山で最先端の宇宙科学技術に触れつつ有意義に過ごされてはいかがでしょうか。
 詳しくは下記のページを参照ください。
 
http://www.nro.nao.ac.jp/visit/open2011/open2011_top.html

(若葉会事務局)



   

 

いきいき卒業生:3期 戀塚 弘さん

  若葉会第3期会員、戀塚 弘氏が第37回「個展」を行います。

  期日  平成22年10月7日(木)〜11日(月)
  場所  豊島区立文化センター(コア・いけぶくろ)

          
(池袋駅東口) 


 戀塚 弘氏はくも膜下出血で生死の境をさまよった後、関連して生じた障碍を克服して、建築家としての活躍を続けると共に、美しい風景を描き続けています。
従って、同期だけではなく、会員の皆様に広くご案内したくHPに掲載いたしました。
同氏がリハビリ後に描いた風景写真を貼付します。これらの絵画は「風景は甦った」と題して展示され、多くの人々に大きな感動を与えました。

平成22年9月29日 若葉会HP担当



 拝啓

 常日頃若葉会の仕事に携わり、教育大同窓会の活性化にお励みの事、御礼申し上げます。

 さて、来る平成二十二年十月七日〜十一日までの五日間、池袋東口の、豊島区立文化センター(コア・いけぶくろ)で開催する、建築家・戀塚弘の絵画個展《風景は甦った》第三十七回の内容、経過を原稿に書いてみました。
 またその展示に併せて公開する、『古事記』を忠実に児童語に訳して大きな紙(B2判515x728)に児童向きに描いた、児童を対象にした『紙芝居五巻=一巻十八画面』の、今出来上がっている一〜五巻の経由、内容、をも原稿に書いてみました。

 まず、これ等の作品(個展を三十七回という事は一回に三十〜四十の水彩絵画の作品)がどうして出来たか?を説明させて頂きます。
 また、この十余年かかって第五巻まで出来上がった『古事記の大型紙芝居』の経緯をも説明させて頂きます。

 私は一級建築士事務所を経営しています。
 さる昭和五十八年くも膜下出血で倒れました。
 生か死か?ではなく、殆ど死、万一の生は植物状態であり、その生も不可能である・・・ということでした。
 病院でも「その手術をしなさい」とは言えないと断わる常態でした。
 その手術をすることになったそうです。
 当時私は無意識でした。

 無意識でいた私が時々目を開けて「紙を持ってきて!絵の具を持ってきて!」と何度も言うのでした。
(山が幾つかあって、山の色はオレンジ、山の陰はまっ黒、空は紫で山の裾野には白い花が咲いています。
 私は、空にいたり花の中に居たりしていて、無くなった父や母や祖母が呼んでいます。
「ヒロボウ、おいで!」
 私はそっちに行こうと思っていますが、「その前にこの美しい景色を描かなければ・・・」と思い「絵の具をもってこい!紙を持って来い!」と言い続けています。フト気が付くと目の前に妻が居たり看護婦や医師がいたりして、また、無意識になります。それが、何度もあって、毎日交替する看護婦たちの話になるほどでした。
 その話は講談社から出版された『甦る!失語症の記録』に記載されています。)

 手術は成功して、でも患者の私は右半身不自由と重度失語症でした。
話が出来ないから建築の設計監理が出来ない私が、(無意識にさっきの美しい景色を思いながら)リハビリ中に描いていた絵画がうんとたまっていました。

 「この、話が出来ない建築家の絵画展をしよう」とデザイナーの栄久庵憲司氏が企画をしてくれて建築評論家の川添昇氏が推薦され、新宿の高野ギャラリーで私の絵画個展が開催されました。
 昭和六十年一月です。
 個展名《風景は甦った》は栄久庵憲司氏です。
 このことが、読売、朝日、日経そのたの第一面の・筆洗・春秋・編集手帳などに出て、NHKのおはようジャーナルをはじめおおくのマスコミに出てました。
 個展で私のリハビリと社会復帰にはりができ、一級建築士事務所が再会されました。
 その闘病記も『甦る!失語症克服の記録』と題され講談社から、昭和六十二年、単行本として発行され後年文藝春秋社の現代ノンフィクション全集の第二巻に全文編纂されました。

 その私の絵画の個展『風景は甦った』第一回は、リハビリ中私にとっては社会復帰を促すためのものであったのですが、何回か開催しているうちに、皆さんの応援や障害の方々へ励みなどが私の別の一面にもなったりして、今回の第三十七回になりました。

 一方、私は若いときから子供好きで、住宅に子供があれば成長の環境が住宅と考え、幼稚園や学校の作品(建築・設計)も多くありました。
 十年ぐらい前の私の個展の会場で、先輩が「英語の原典を英語で読みなさい」と指示され、私は英語が出来ないし、原典は日本の物を・・・と考えて万葉集に突っ込みました。
 でも、万葉集は、人事か、ロマンか、歴史家か、政略か、色々の読み方があります。どの読み方をするか?という意味で、皇室の歴史、それから、普通の歴史、そして、日本書紀と古事記になっていきます。
 私の頭の中が本本本で一杯になって、何だかわからないまま、本を煽っていました。
 そのころ、偶然幼稚園の設計が続きました。
 (幼稚園の設計という物は、本での知識はいりません。幼児がどう生きているかを幼児として感じることです。幼児と遊ぶ事です。それが設計という技術を教えてくれる物です)

 幸い、というか偶然というか、わたしの幼児時期に教えられたこと、話された事、読んだ事、の全部が殆ど古事記でありました。
 やまたのおろち・あまのいわやと・いなばのうさぎ・うみひこやまひこ・やたからす・・・
 ぜんぶ古事記です。
 そして、今の日本の子供には、自分の国の神話が一切ないことに気が付きました。
 天皇の歴史や考古はこどもの神話には、関係ない。
 私が幼児期にはあった神話、それで育った神話が、今は無くなってしまったのです。
 私は「神話がない、日本の子供たちに、神話を作ろう!」と思いました。
  気負って言えば
 くも膜下出血で死ななかった事も、・・・
 個展を何回も開催した事も、・・・・
 幼稚園の設計や住宅で子供室を設計した事も、・・・
 そして古事記に戻った事も、・・・
 全て、子供のための紙芝居を作る為だったのかも知れない、と思っています。
 そして、(予定では二十巻)全部出来ないかも知れない。でも人間、一つぐらいは、途中で死んでも良いではないか?という心境です。

平成二十一年一月十四日赤口記。
東京都豊島区西巣鴨一ー二十六ー五
戀塚弘設計事務所


          
戀塚弘さんがリハビリ後に描いた風景写真

     


             


   



          杉森様は2011年5月2日にご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りいたします

なお、北アルプス常念岳に登山中の事故によるものでした。
冷気と強風の中、700mも滑落してしまった同行者を
救助すべく急な崖を下り、状況を確認するや、少しでも軽量化を図らんと現場に自分のリュックを置き、再度崖を登頂し第三者への支援を求めました。
登り切ったところで冷気と極限の体力消耗に襲われた結果と推測されています。

自身の危険を顧みず勇敢にして壮絶な最期であったことをここに付記いたします。 

15期 羽鳥敏夫


いきいき卒業生:15期 杉森 覚さん

<10回目の駿府マラソン>

 今年3月7日(日曜、雨)に行われた静岡駿府マラソン(ハープマラソン21キロ)に出場し完走。今回が10回目でタイムは1時間56分43秒、制限時間の2時間まで3分余だった。

 前職の商社を早期退職してここ静岡のK電機に再就職したのは10年前の四月だった。転職を検討していたときに受けた再就職セミナーで、50歳を過ぎてこれまでと違う業種の会社に行った場合、3年もたずに辞める率が極めて高いことを教えられていた。又、友人がオーナーをしている中小企業に再就職した場合意外に関係が上手く行かないことが多いこともデーターが示していた。それにも拘わらず、これまでと全く違う業種の会社、前の商社で同期だった友人が父親の後を継いでオーナーとなっている会社、しかも全く地縁の無い静岡のK電機に再就職したのだが、それでも何となくやっていけそうな気がしていたのは再就職セミナーを一緒に受けた仲間たちが「俺たちは駄目でも杉森だけはどんな会社に行ってもきっと新しい環境に馴染んで続けてやっていける」と言ってくれていたからであった。

 商社を辞めるとき、自分の父親が中小企業を経営していたという上司から、オーナー社長が頑張っている中小企業に再就職するのであれば、社長より2割多く働くこと、それが出来なかったらオーナー社長に評価されるような仕事は出来ないよ、とアドバイスされ、それを心掛けたが、半年足らずで不可能だと悟った。その頃の社長は、夜も殆ど飲みに出ず、休日も会社に来て朝から晩まで仕事をしていることが多く、月に400時間働くことを目標にしていた。自ら月間400時間働くことを目標にするだけでなく、若いオーナー経営者達に経営者たるもの月間400時間働くべきだと話していた。いわく、月に25日しか働かなければ1日に16時間働かないと400時間働けないが、30日働けば1日13時間余で400時間働ける、と。実際社長の働く時間は、400時間の目標には到達できなくても、少ないときで350時間はオーバーしていた。私自身、仕事というものは時間よりも質や効率が大事だという考え方をしていて、ただただ長く働くことには抵抗を感じたが、再就職したばかりからオーナー社長の考え方・価値観を受け入れることが出来なかったらその会社に溶け込んで力を発揮することなどとても無理、郷に入りては郷に従え、と社長に負けずに長時間働くことを決心した。但し、月間400時間を目標にしている社長より2割長く働くのはとても無理なので、目標は社長より5パーセント多く働くことに切り替えた。社長がたまにゴルフに行ったり、夜お客を接待したりすると、社長プラス5パーセントの目標が達成しやすくなるようで、ホッとしたものである。

 一年目からやるべき仕事には事欠かなかった。入社間もなく、東北のN社との事業統合の話が持ち上がり、人事給与制度や就業規則の検討が始まり、又、この年に倒産したT社の後始末のような形で、破産管財人との交渉、グループ会社の合併やら海外現地法人の買収、合併、設立などが始まった。東京に置いてある家族のことなど省みる余裕も無く、仕事に明け暮れながら、でも健康のために朝のジョギングだけは続けていた。

 そんな一年目の年が明けたばかりの正月、若い社員から駿府マラソンに出ないかと誘われた。
「駿府マラソンって何? 」
「ハーフマラソンなんですけど、県庁前から出発して駿府公園に戻ってくるんです」
「出てみたいけど、どうやって申し込むの?」
「インターネットで申し込めますよ。でも、まだエントリー可能かなあ」
 調べてみると、申し込み期限まで2、3日しかなく慌てて申し込んだ。

 初めて走った駿府マラソン、2001年3月4日(日)は雨だった。いたる所に水溜りがあり、靴の中がびしょびしょになった。走り終わった午後、仕事をしに会社に行ってみると膝が痛くて階段の上り下りが辛く二階から一階に下りるのにエレベータを使うほどだったが、完走した達成感はとても心地よく、静岡での一年が無事に終わろうとしている3月の良い記念になったように思われた。この3月に開催される駿府マラソンを毎年走ることが、静岡生活一年毎の区切りになるように感じられ、少なくとも3年は連続で走ろう、と心に決めた。

 3年間もあっと言う間に過ぎていった。3回目の駿府マラソンを走り終えたとき、静岡に来て3年、この地にも馴染み会社の仕事にも慣れ、それなりに少しは役に立っているかも知れない自分を誉めたい気持ちにもなったが、3年なんかで満足するのは甘いのではないか、10年頑張ろうと思った。10年間頑張ったら自分を誉めてやろう。高齢で再就職した者など、役に立たなければいつでも辞めざるを得ない。何とか、会社に必要だと評価されるように今のモチベーションを10年間持続させるのだ。そして、駿府マラソン10回連続完走を目標と定めた。

 その後、昨年の9回まで順調に駿府マラソンを完走してきた。 3回目の駿府マラソンの後で始めたフルマラソンも昨年までに13回出場,全て完走し、一昨年にはサロマ湖のウルトラマラソン100キロも完走できた。ハーフマラソンの21キロくらいどうということはない。多少、調子が悪くても完走くらいは出来ると思っていた。

 今年に入り、練習量も増え、1月には普通の出勤日で朝食の前に10キロか12キロ、休日では1月10日(日)に37キロ、翌11日(月) に15キロ、24日(日)に23キロ、31日(日)に 37キロ、と年始挨拶の出張等で殆ど走れない日があったにもかかわらず、1ヶ月で364キロ走り込んでいた。  

 左腰の出っ張り部分に痛みが出始めたのは、2月10日くらいからだった。ちょっと気にはなったが、ランニングに痛みは付き物、膝の痛みよりは腰の痛みの方がましだろうと思っていた。その後、2月中旬仙丈ケ岳登山に行ったときもそれほど痛まず、下山した翌日、翌々日に走ったまでは良かったが、その次の日の朝、走り出したら痛みがひどく3キロ程で走れなくなり、歩いて帰るはめになった。その後、4日間ほど走れず、多少は良くなっているだろうか、そろそろ駿府マラソンの為に練習しておかなくては、と痛みを堪えながら8キロ走ってみたのが21日(日)。翌日から歩いていても痛むようになったが、まだ2週間もあるから、と高をくくっていた。しかし、痛みは増すばかりで、歩くときにも左手で腰のでっぱりを押えるような毎日だった。

 駿府マラソンの前日、6日(土)も朝起きたら痛みがかなりあり、もう諦めるしかないのかとも思ったがずっと前からの目標であり、静岡生活10年間の総決算と位置づけてきた10回連続完走の最後の1回を走らずに棄権するのは耐え難く、整形外科のK医師を訪ねた。K先生は自らもマラソンをする医者だが、この痛みは筋肉と腱の疲労によるものと診断し、駿府マラソンは走らない方が良いが、どうしても走りたいのであれば、痛み止めの注射をして、痛み止めの飲み薬もくれると言う。勧めに従い患部に注射をしてもらったら、幾分痛みが和らいだ気がした。

 当日、7日は朝から雨が降っていた。痛みは有るが、でも走れないほどではないようだ。とにかくやれるだけやるしかない。現場に到着してゼッケンを受け取り、シャツにゼッケンと会社のマークを付け、大型ゴミ袋に首の穴と両腕の穴を自分であけた簡易雨具を被り、前日もらった痛み止めの薬を飲む。

 スタートのときは、気持ちが高ぶる。とうとう10回目になったという感慨と完走できないのではないかという不安。

 ピストルの音が響いて走り出すと、思いのほか走れそうな気がしてくる。しかし、2、3キロの辺りから案の定、痛みが出始める。でも、薬のせいか、それほど酷くなさそうに初めのうちは感じられた。腰をかばいペースを押さえ気味に1キロ5分30秒から40秒で走る。雨が小雨になってきた8キロ辺りの飲み物スタンドでゴミ袋の雨具を破り捨てる。でも水を飲む余裕は無い。この間も痛みは徐々に増してくる。中間地点では、腰の患部を押さえないと走れないようになっていた。中間地点を過ぎた辺りから自分を抜いていく人の数か増えてくるので腕時計を見ると、1キロ6分から6分30秒のペースに落ちている。まずい、このままでは制限時間内に完走できない。少しスピードを上げると痛みが増す。ずっと患部を押さえ続けている左手が疲れてきて、時々手を離すと鋭い痛みが走り慌てて押さえなおす。

 やがて安倍川の土手に出る。毎朝富士山を眺めながらこの安部川沿いを走るのが日課である。他のルートを走ることもあり、又天気が悪くて富士山が見えない日もあるが、ここを走りながら富士山を眺めた事も1000回は超えているだろう。土手に出て間もなく15キロ地点になり、腕時計を見るとやはりペースが落ちている。このままのペースでは、2時間をオーバーしてしまう。2時間を切れなくても良いではないか、完走証を貰えなくても良いではないか、2時間20分掛かっても、30分掛かっても、自分で走ったということが分かっていれば良いではないか。陸上の正式な選手でもなく、賞金をもらえるのでもなく、単に自己満足の為に走っているのに、何故完走証一枚にそれほど拘る必要があるのだ、そんなに無理をすることはない、自分の体を大切にすることのほうが賢いのではないか、と自分の心が囁く。一方で、でも完走証が欲しい、10回目が駄目なら過去の連続9回も無価値になるような気がして焦る。 

 痛くても良いではないか、このままのペースで走っていたら絶対に2時間を切れないのだから、やれるかどうか挑戦するしかない。そう思ってペースを上げると、その分痛みが増す。左手の押さえを強くする。顔がゆがんで見えるのだろうか、沿道で見ている人が「あの人、苦しそうね。大丈夫かしら」と話している声が聞こえる。 

 2時間を切れると確信できたのは、駿府公園の堀を回り始め、残り1キロ余になったころだった。残りを1キロ7分のペースで行っても、まだ1、2分の余裕がある。走れる。とうとう、やった。完走証がもらえる。10回完走。そう思ったら、10年間のことが次から次へと思い浮かんできた。

 会社では、再就職当初のように意地をはって社長より長く働く必要も無いようになってきているし、社長自身の働く時間も月間300時間以下になってきている。

 留守にしている東京の家では、10年前に学校に通っていた四人の息子達も、夫々自分の生き方を見つけ始めている。当時中学生(筑駒)だった四男が高校で留年し中途退学してしまったときは、家庭を放りっぱなしにしている父親のせいでは無いかと悩んだりもしたが、その四男も昨年には大学を出て就職している。

 静岡は気候も温暖だが、人々の心も温かい。10年の間に多くの出会いがあり、沢山の仲間が出来た。そして幾つかの別れもあった。行きつけの居酒屋の親しかった常連客でも5人が亡くなっている。仲間の中で長老格の笹本さんは、鮎釣り、山芋掘り、山菜採りなど多才な人で、いつも静かに飲んでいたのに、あるとき暫く来ないで入院していたらあっけなく亡くなった。居酒屋のすぐ近くに住み実家から葉生姜をいっぱい持ってきてくれた八重ちゃんは私が自転車で会社に行くところを見かけると、家の中から大きな声で「杉さーん、頑張ってねえー、行ってらっしゃーい」と、近所の人がびっくりするほど大声で声を掛けてくれたものだ。毎週末にビールのジョッキを二杯、ぐいぐいと飲むのを楽しみにしていたが、胃癌になり2年足らずの闘病の後亡くなった。口が悪いがいつも周りを笑わせていた蒔絵師の小川さんは、飲み過ぎで肝硬変を患い、入退院を繰り返していたのに、退院してくると又居酒屋に来て酒を飲み、周りの仲間から、今年は死ぬだろう、今年は死ぬだろうと何年も言われ続けていたが、最後は転んで入院して亡くなった。釣り仲間の片山さんの奥さんで一緒にトランプ博打をしたタカちゃんは「夫より長生きしたい」と言うのが口癖だったが、結局自分が先に亡くなってしまった。私と略同い歳で木遣の上手かった大工のゴンちゃんとは、ゴンちゃんの大工仲間を集めて歌ってくれる静岡木遣を録音させてもらうという約束をしていたのに、居酒屋の帰りに寄った近くのサウナの湯船で溺れているのを翌朝発見されて、木遣は録音出来ず仕舞いとなった。少数の高卒の人たちと殆ど中卒の人たちで国際問題も経済問題も関係ない世界ではあったが、皆懸命に生きていた。そして、皆、よそ者の私にも優しかった。会社では、私と一緒に二人だけの部署で頑張っていた、戦友とも言うべき後藤彩さんの47歳の死。

 10年間の思い出と共に、心の奥の方から熱い塊のようなものが次から次へとこみ上げてきて、自分の顔がくしゃくしゃになっているのが感じられる。周りの景色がにじんでぼやける。でも、折から強くなった雨のお蔭で、頬を濡らしているのは私だけではなかった。 
                                                                        了

       
   
痛い左腰を抑えながら走る杉森さん       10回目の駿府マラソン完走証


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