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  校 歌

 ※母校の校歌は堀内敬三氏の作詞・作曲によるもので、HPに掲載するには、著作権料が発生します。楽譜・歌詞をご希望の方は事務局へお問い合わせください。堀内敬三氏直筆の楽譜をお送りします。
下記の記事は1977年発行の「創立30周年記念誌」に寄せられた寄稿です。




 東京農業教育専門学校の附属の時代は、一三二ページのような専門学校の校歌を附属の校歌として用いていた。
 この農教の校歌もそれ自体としては、駒場に発生しただけに、たいへんよいものであった。しかし、時代の変遷と母体からの独立独歩の時を迎えたので、近代的な、感覚の清新なものを求める要望が学園の内部より芽ばえ、一九五五年(昭和三十年)丸尾・明石・重松の各教官と、駒場会役・委員会とで、校歌制定を具体的に進めることになった。一九五五年五月第一回の定例役・委員会において、委員長・大嶺詮雄氏(一・三・六の各期生父兄)を中心にして、教養委員・若松弥太郎氏(七期生父兄)の積極的な御助力を得ることができるようになった。若松氏は堀内敬三氏・山田耕作氏と個人的に御懇意にしておられたが、一同で相談の結果、堀内氏にお願いしてみようということになり、同年六月八日(水)正式に学校より堀内氏へお願いに参上した。
 その時、母体であった専門学校の校歌、学校要覧、文芸部の部誌、卒業生の文集などを参考資料として持参し、学校の沿革や生徒の野生的で素朴な気風のあること、そして駒場と農学、駒場の武蔵野としての自然、戦後新しく発足した学校としての近代的な発展を遂げるべき夢と希望などを申し上げた。
 堀内先生は、自分も大塚の旧高等師範学校附属中学校の出身で、教育大学の附属学校ということになれば因縁浅からざるものがあること、また、外国の大学で工学を学んだが、外国の、個性を尊重し自発性を重んずる教育環境にはぐくまれて、本来趣味としていた音楽関係のことに自分の進むべき道を見いだして今日に至っているなどのお話をうかがった。その時、先生より学校を訪問して自分の目で見ておきたいというお申し出があり、もちろん、学校としても願ってもないことなので、ぜひ御来校していただきたい旨のお願いをした。
 六月十七日(金)御来校を願って音楽部員を中心とする有志の希望者二十数名と懇談していただき、生徒の実態を見ていただいた。今日のようにスマートな鉄筋の建物ではなく、兵舎の改造や建て替えの木造の校舎が雑然としていた。世の中一般がそうであったからだれも異様には感じないような時代ではあったが、応接室もなく、校庭の区画など農学部との関係もあって判然とせず、石ころは多く、校庭はぬかるみ、草は茂るといった光景をありのまま御案内した。九月を迎え、校歌発表を文化祭の時にと予定していたので、作成の進行状態を、再度若松さんをわずらわせてお聞きした。九月上旬までの段階では、作曲と一番の作詞とはできているが、二・三番の歌詞を推敲しているとのことであった。
 やがて十月の声を聞き、御連絡があり、一応できたから、自宅へ来てほしいとのことで、早速、若松氏と丸尾、重松教官の三名が田園調布のお宅へ参上した。音色がたいへんよいオルガンで曲をかなでながら、こんな校歌ができましたがいかがでしょうか、とのことで、一同感謝と感激をするとともに、校歌発表をこの年度の文化祭の時にしたいので、堀内先生の御出席をお願いし、文化祭に御講演をしていただきたい旨お願い申し上げた。
 十月十七日校歌が完成し、梅沢先生が堀内先生のお宅にお訪ねし、一二九ページのような原本を頂戴した。菊の香り高き秋の文化祭(十一月二日)には、堀内先生の御出席を願い、午後二時より「日本人と音楽」という演題で御講演をしていただき、ついで午後三時より新しい校歌の発表が行われた。

                                        (教官 小澤正晴・佐野清 調)







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